第一章 第一話 あかね


目を、瞑り続けていたかった。

茜の空に見た夢が、永久に朽ち果てないように。








時は、遥かに遡る。

神と妖怪、そして人間が共存していた時代。



土地に住まう人々は、荒地を開拓し小さな集落を作った。

その集落では農業を営み、野山の獣を追い、やがて経済活動を開始した。

「さぁ、皆で幸せになりましょう」

翼を持つ者。角を持つ者。第三の目を持つ者。

住人達は種族を越えて手と手を取り合い、集落の発展に努め、

緩やかで平穏な時が流れた。



疑いなどあるはずがなかった。

世界は、確かに輝いて見えたのだから・・・・・・



そう、あの日までは。






















「竜神様、今日のお恵みに感謝いたします」

例年よりも幾分か長い冬が過ぎ、

村人は老若男女問わず天を仰いで跪き、声を揃えてそう言った。



近隣に点在する村々の中でも特に雪が深く、

寒さを避けて民家の中で過ごす時間が長い日向村では、

万物が芽吹く春の訪れが、他の何よりも喜ばれた。

そのため、土地の守護神である竜神を祀った社には、

冬篭り後に採れた新鮮な供物が、溢れんばかりに捧げられている。




「さっ、お祈り終わり! 早く入ろう!」

「ひゃっ・・・・・・」

足を浸そうと爪先を伸ばした瞬間、

雪解け水の冷たさに、思わず甲高い声が漏れた。

「ささらったら、変な声出さないで。ゆっくり慣らしなさいよ」

「ごめんなさい。もう平気だから」

驚かしたことを謝罪して、今度こそはと足を伸ばす。

膝まで足を踏み入れると、ひんやりした心地良さが全身に広がって、

痺れるような感覚が爪先から頭まで突き抜けた。

「ああ、気持ちいいね。とっても」

春の柔らかい日差しをくるくる巻き取った水面は、

サラサラと優しい音を奏でながら、眩暈がするほど明るく輝いている。

私はゆっくりと息を吸い込んだ。

すると、

「ねぇ、それより見てよ。この花飾り。徹夜で作ったのよ」

一際高い声を持つ少女が、高らかに言った。

「手作りの花飾りね、素敵だわ。しかもこれ、生花じゃないの?」

「そうよ、咲いたばかりの福寿草を使ったの。

すごく簡単だから、今から皆で花を摘んで作ってみない?

・・・・・・っと、ごめん。禁句。ささらには見えないのに、無神経だったよね」

言いだしっぺの少女は気まずそうに口篭った。

私は慌てて笑顔を作る。

「ううん、いいの。平気よ」

生まれ付き目に障害がある私には、福寿草の姿は見えていなかった。

本当は目で見て、色を称えて、皆と一緒に楽しみたいけれど・・・・・・

でも、自分が不幸だと感じたことなんてない。

明暗は区別が付くし、気配や音で大体のことは察知できる。

それに、村の皆がとても親切にしてくれるもの。

それだけで、十分幸せなことだわ。

「気を遣わせてごめんね。ああ、とてもいい香りがする」

瞼の裏にぼんやりと映し出された影をたどり、私は瑞々しい生花に鼻を近づけた。

少女は安心したのか、ホッと息を漏らす。

「あっ、丘に節分草も咲いてた! いい香りで、ささらも楽しめるわよ!」

「ええ、是非行ってみたいわ」





「・・・・・・さら!」

今、誰かに呼ばれた?

それは気のせいでも何でもなくて、声は徐々に大きくなった。

「ささら! ささら!! やっと見つけた!」

バサバサと音を立ててショールとスカートを翻して、

一人の少女が騒々しく駆けて来た。

「こっちよ。千代?」

私の一番の親友である彼女は、千代と言う。

人間と妖怪の間で生まれた、言わば混血児。

だけど、妖怪と人間が入り混じって暮らすこの村ではさほど珍しくない。

「そんなに慌てて、どうかした?」

「もうっ、本当にのん気な子ねぇ・・・・・・あの噂、聞いた?!」

呼吸を整える時間さえ勿体無い、と言わんばかりの速さで、

千代は私の鼻めがけてズイと人差し指を伸ばす。

思わず声が上擦った。

「・・・・・・う、噂ってどんな?」

ポタポタと勢いよく滴る千代の汗を袖で拭いながら、

聞き覚えのない話にそっと耳を傾けた。







「だから、瑞貴の縁談のこと!!」




・・・・・・え?





「なんとお相手は、村を治める領主様のご令嬢よ!

自分の娘の婿に、って瑞貴を熱望してるらしいじゃないの!」

領主様の一人娘は、御年十六歳になられる才女。

激情家の領主様には似ても似つかない、穏やかな方だと噂だわ。

それに、私と違って、心身ともに健康な・・・・・・

「私・・・・・・そんなの知らない・・・・・・」

いつの間にか、陽光が夕日に変わっていた。

瞼の裏が、真っ赤に染まる。

鼓動がうるさい。


瑞貴が結婚・・・・・・?


「村中が大喜びしてるよ。あんたどうすんの?!」

私達の幼馴染の瑞貴は、例えるなら陽だまりのような人だ。

いつでも側にいて、私の髪を撫でては柔らかく微笑む。

みずらに結い上げた細い髪も、ゆったり着た麻の衣も、

ふんわりお日様の香りがして心地良かった。

そんな瑞貴が、急に手の届かない人になるなんて・・・・・・

「ど、どうするのって・・・・・・私は、別に」

震えて、何度口を開いてもうまく言葉にならない。

「もうっ、『瑞貴は私と結婚するんだから』って止めに行きなさいよ!」

千代は私の肩を無造作に掴んで、前後左右に揺さぶる。

私のことを心配してくれているのがよく分かる。

でも、でも・・・・・・

「そ、そんなんじゃないったら!

それに、私には果たすべき義務がある。知ってるでしょう?

結婚なんて、私には無理だもの・・・・・・」




恋をする資格もない私には、

瑞貴の結婚を止める権利なんて、何処にもない。




「私は賛成よ。

領主様のご令嬢なら、瑞貴はきっと幸せになれる」

薄っすらと紅を注した唇を、力任せにギュッと噛み締めた。

鼻先がつんと痛んで、目頭が熱くなってくる。

普段は何の姿も映さないくせに、こんな所だけ機能するなんて皮肉だわ。

「またそんな心にもないこと言って!

馬鹿ね、瑞貴に愛想つかされても知らないよ?!」








―― こつん

千代が乱暴に言い放ったすぐ後で、間の抜けた音がした。







「痛っ・・・・・・」

頭を小突かれた千代が、慌てて振り向く。

「千代、俺の心はそんなに狭くないよ?」

「み、瑞貴! いきなり後ろから出てこないでよ! 驚くでしょうが!」

「俺の悪口を言った罰だよ」

呆れたようにフッと微笑む、大好きな息遣い。

いつもは優しい響きが、今は不協和音しか聞こえない。

問い詰めたいような、逃げ出したいような、

複雑な想いが今にも溢れ出しそう。

でも、

「お帰りなさい、瑞貴。今日もお勤めご苦労さま」

笑いなさい、ささら。

瑞貴は何も悪くない。

悪いのは、浅ましくて醜い私の心でしょう?

さぁ、笑うの。

「ささら、ただいま」

「あーあ、お二人さん、お熱いわねぇ?

領主様の家の婿になるくせに、この浮気者!」

千代がわざとらしく咳き込んで、茶化すように言う。

その一言で前向きな気持ちは挫けて、背筋が凍りついた。

「ち、千代ったら・・・・・・!!」

私は人差し指を唇に当てて、黙るように促す。

瑞貴はいつも通りによしよしと私の髪を撫でて、

千代の嫌味に静かに答えた。

「千代、誤解しないでくれよ?

俺はずっと断ってるんだけど、村長達がなかなか譲らなくてね」

よかった・・・・・・結婚、したくないのね・・・・・・?

「そりゃぁ当然だよね、領主様と仲良くなれるいい機会だもん」

「そう言う状況だから、無理やりってこともあるかもしれない。

だけど、抵抗するよ。俺は結婚する気なんか、少しもないんだからね」

ホッとして、強張っていた体の力が抜けていく。

そんな私の様子に気付いたのか、千代が私を抱きしめた。

「いい? 明日、もっとビシッと断っておいで!!

あんたは、ささらのこと好」

「お、おいっ・・・・・・千代?!」

瑞貴は慌てて、千代の口を塞ぐ。

「ちょっ・・・・・・みず、苦しっ・・・・・・ううぅ!」

呼吸困難でモゴモゴ言っている千代に、私は小さく噴出した。

「ふふっ」

お願い、終わらないで。

こんな穏やかな時間がたまらなく好きなの。

私は変化なんて望まない。些細な日常でいい。

いつまでも続くなら、それが一番幸せなの。










「遠回りさせてごめんね。瑞貴」

茜色に染まった丘を、ゆっくりと歩く。

赤レンガで舗装された道は、村のごく一部しかない。

だから、いつからか心配した瑞貴が送り迎えをしてくれるようになった。

いつもと変わらない、大好きな時間。

なのに今日は、繋いだ右手が妙に火照る。

「俺が勝手にやってるんだよ。

それに、今日は元気がなかったから心配してたんだよ」

「気にしないで、別にたいしたことじゃ」

「しぃ・・・・・・静かに。じっとしてて」

彼が言葉を遮った瞬間、髪に何か違和感を感じた。

「瑞貴?」

「それ、贈り物な。良く似合うよ」

手を伸ばすと、湿った何かが乗っかっている。

きめ細かい繊維に触れると、ふんわり甘い香りが漂う。

「これ・・・・・・お花? わぁ、ありがとう!」

昼間私だけ作れなかった花飾り。

まるで冠のようなそれはいい香りがして、本当は私も欲しかった。

「瑞貴はいつも、私が欲しいものをくれるのね」

「・・・・・・あの、さ」

瑞貴は口ごもりながら、ぎこちなく話し始めた。

「ん?」

「ささらは・・・・・・

義務とか、結婚できないとか、嫌じゃないのか?!」

「何故そんなこと聞くの?」

キョトンと質問を返す私に、瑞貴は焦ったように声を荒げた。

「何故って・・・・・・ささらは、女の子だし!」

「女である前に、私は巫女だから。

土地の神様の心をお慰めするのが、巫女の役目。

だからこそ、一生を捧げ、純潔を守らなくちゃならない。

瑞貴も知っているでしょう?」

「でも、そんな古い仕来りは・・・・・・!」

私は静かに首を振り、瑞貴より先に口を開く。

「瑞貴は・・・・・・私がどうして巫女なのか、知ってる?」

「いや、詳しくは」

瑞貴は首を傾げた。




「私は昔『呪われた子』って呼ばれてたの」



「な・・・・・・?!」

「私が生まれた時に、占い師は言ったわ。

『この稚児は、土地の未来に破滅を齎す』と。

それを聞いた領主様は、私の両親を幽閉してしまったそうよ。

村長様の懇願のおかげで、私の命だけは助かったけれど・・・・・・」

「巫女として生涯働くことが条件か?」

「そう。

だから、私の命は竜神様のものなの。

生き残れた奇跡に感謝こそすれ・・・・・・我侭なんて、とても」

穢れた運命を持つ私がこの村で生き残るためには、

心も、体も、全て差し出して、受け入れるしかなかった。

生れ落ちたその瞬間に決まったの。

「抗うことは、赦されない・・・・・・瑞貴?」

一頻り話したところで、

私は、瑞貴が小刻みに震えてることに気付いた。

肌は冷え切って、ピリピリと張り詰めた空気をまとっている。

「・・・・・・な、んだよ、それ・・・・・・どうして平然と話すんだ?!」

私のことを、心配してくれるのね。

「私は怒ってないの。

だって、私はずっと・・・・・・すごく幸せだったから」





―― ダンッ

瑞貴は悔しそうに、拳で木の幹を打ちつけた。






「それじゃ、ささらが可哀相すぎるだろ・・・・・・!!」

確かに怒るべきかもしれない。

だって、あの占いは大外れなんだもの。

どうしたら、こんなに愛している村を陥れることが出来る?

「ささらは、占いなんかのためにずっと縛られてきたんだぞ?!」

「瑞貴・・・・・・」

私は、懐の手拭で傷付いた瑞貴の掌をそっと包む。

「村の役に立てるだけで、私は嬉しかったの。

両親も私のせいで死んでしまったけれど、きっと喜んでいるはずよ」


私を愛してくれた人達に恩返しが出来る。

そう考えるだけで、私の存在が救われた気がしたの。

結婚なんて出来なくても平気。



・・・・・・と、思ってた。




馬鹿ね。

嘘ばっかり。









「だけど、ね・・・・・・」

どうして・・・・・・涙が零れるの・・・・・・?

頬を、暖かい雫が伝っていった。







「さ・・・・・・泣いてるのか?!」




竜神様、ごめんなさい。

私の心は、やっぱり綺麗なんかじゃなかった。

人の役になんて立てなくていい。

誰が傷付いたって、本当は構わないの。




「私も・・・・・・普通の女の子に、生まれたかったよ!!」

どうして私なのですか?

私があなたの巫女じゃなかったら、

瑞貴に気持ちを伝えることだって出来たのに。

どうして私は、人を好きになることすら赦されないの?







いつか愛する人が結婚して、

私を独り置き去りにしたまま去っていくのを・・・・・・

どうして見ていることしか出来ないの?



大切なのに、何も・・・・・・

ずっと、何も、伝えられないままで・・・・・・








「私を・・・・・・置いてかないで・・・・・・」

鼻がツンと痛んで、大粒の涙が止め処なく毀れる。

でも、拭うことも忘れて縋った。

「嫌なの、一人は嫌なの!

ずっと・・・・・・結婚なんか、ずっとしないでっ・・・・・・

お願いだから・・・・・・!!」

諦めるしかないって分かっているの。

瑞貴を困らせちゃいけないって、本当は分かっているの。

だから、これは全部、夕焼けのせいよ。

心を締め付けて寂しくさせる、茜色が悪いの。











「・・・・・・ささら、一緒にこの村を出よう!」








え・・・・・・?







「村を出て、結婚しよう。

ささらだけが犠牲になることなんかない!!

もし、俺のことが嫌いじゃないなら・・・・・・俺の所に来て?」

瑞貴はそう言って、私の手の甲に唇を当てた。

手から広がって、全身が一気に硬直していく。

呼吸をするのも忘れて、ただ、瑞貴だけを見ていた。

胸が、締め付けられて息が出来ない。









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【あとがき】


ご無沙汰しております、幸村です。

こんな風にあとがきを書くのも何年ぶりでしょうか。

臆病なので、一字書く毎に誤字脱字をチェックしています(笑)



リニューアル版の第一話はいかがでしたか?

大筋は変えずに、主に情景描写を追加したのですが、

「前の方が読みやすかった」と言うご意見も当然あると思います。

実際、前の方が簡素ですぐ読めますし。

ただ、日向村は今後も大事になる場所ですので、

より鮮明にイメージして頂きたいなと思い、加筆しました。

受け入れて頂けるといいなと切に願っています。



さて、今回の面白い(?)裏話ですが。

一番修正したかったのは、ささらの視点でした。

と言うのも、昔の私は、悲惨なミスをやらかしていたのです。



読者様:「ささらは盲目なのに、何で距離や色が分かるんです?」



・・・・・・ハッ!Σ(゚□゚;)


読者様から頂いたこの質問はもっともでした。

盲目と言いつつ、リニューアル前は見えていたのです(笑)

いつもの癖でついつい普通に書いてしまい、気付いた時には後の祭り。

「距離や雰囲気は音で大体分かるし、

夕焼けくらいは瞼の裏からでも分かるはず」と言い訳しても、

花や景色や瑞貴の服の色まで分かっちゃおかしいですよね。

リニューアル版では絶対に直そうと決めていたので、

今度は見えない風に書けているといいな。


昔の問題作を見たい方、添付で送りますよ(笑)