十一話 「過ぎし日の夢幻」 「滑るから足元に気を付けろよ」 妙に息が切れるし、爪先の感覚がない。 歩き詰めで潰れた肉刺が、膿んでしまったのかも・・・ 私は、膝丈で括った着物の裾からのぞく足に、視線を落とす。 あーあ・・・あちこち傷だらけ。 もう慣れたし、この際贅沢は言えないけど・・・ 万が一お母様にでも見られたら、卒倒してしまうでしょうね。 「こら、聞いてんのか?」 「え? あ・・・あぁ、大丈夫よ」 私は遥の指示に頷いて、苔生す巨大な岩に足を掛ける。 すると、次の瞬間、背中に冷たい物が落下してきた。 「わ、あっ・・・!!」 「どうした?!」 驚いた拍子に足場は崩れ、視界が大きく揺れた。 そして、勢いよく苔の上に尻餅をつき、不幸にも舌を噛む。 な、何でこうなるのよぉ・・・ 「す、水滴が背中に落ちて・・・痛たたた・・・」 「注意した途端にそれか。 まったく・・・お前は生傷が絶えないな。ほら、早く手に掴まれ」 お尻を摩り、差し出された手に掴まろうとした時、 「・・・ねぇ、これは何?」 壁の一角に、何かが彫られていることに気付いた。 形を見る限り、像か何かみたいだけど・・・ 「ああ、水穂の民が崇める神の像だな。 運悪くここに迷い込んだ人間が作ったのかもしれない」 「水穂では何を祀っているの?」 「高天原の竜神みたいな土地神じゃなくて、 水穂の民が崇めているのは、この世を作った2人の創造主だ。 ほら、ここと・・・ここに頭が2つあるだろう?」 指で示されると、2人の神が寄り添っている像だと分かった。 いかにも仲睦まじそうに微笑んでいる。 「左の方が光を司る女神様。右が闇の大神様ね?」 創世神話に登場する、混沌から世界を作り上げた創造主で・・・ 万物の生と、万物の死を司るとされている。 そう考えると、不意に頭の隅っこを誰かの姿が過った。 ええと・・・誰だったかしら? 「創造主と言えば、前に季沙が言ってたな。 『会ったことある』って・・・まぁ、多分冗談だったんだろうけど」 「あら、案外本当かもしれないわよ?」 だって、私も500年も昔の巫女様と繋がっているんだもの。 確実に起こりえない事ではないでしょう。 そ、それにしても・・・ 今でどのくらい歩いたのかしら? こんな濃闇の中じゃ、朝か夜かも分からない。 本流との合流地点で地上に出れると、遥は言ったけど・・・ 視覚も聴覚も、そろそろ麻痺してしまいそうよ。 この水脈が恐れられる所以って、それも一因なのだと思うわ。 黙々と歩ける遥は、よほど神経が図太いのね。 少しでも早く、地上に出たい・・・ 「ねぇ、もう結構歩いた?」 痺れを切らした私は、平静を装った声音で問う。 それでも遥は一言の返事もせず、黙々と岩場を渡っていく。 「ちょっと、遥・・・聞いてる?」 私は、口を噤んだままの精悍な横顔を眺めた。 何か、あったのかしら・・・? ”遥くん、ねぇ、聞いて聞いて! 偶然なんだけどね、私さっき神様に会ったんだよ。 あ、その顔は冗談だと思ってるんでしょう? 本当なの、黒装束を纏った凛々しい男神様だったんだから!” 桜に季沙のことを話したからか・・・ もしくは、こんな閉鎖的で薄暗い場所に長く居るせいか。 ふとした瞬間に、お前のことを思い出すんだ。 懐かしい 満ち足りた日のことを。 7歳で仕官して、俺は都で暮らすようになった。 始めは勉強をしたり、国主の一人娘の桜と穏やかな時を過ごし・・・ 順調に位を上げ、13歳で国主から遠征隊の指揮官に任命された。 国を離れたかった俺には、好都合だった。 その理由は、2つ。 大きな仕事をして、家族を養う纏まった金を得るため。 巡業に出る季沙を追い、再会するため。 そして、その日は程なく訪れた。 「そこの荷馬車、止まれ!!」 13歳で、初めて水穂に赴任した時だった。 いつも通り、金の輸送路の警備と検問を行っていて・・・ ふと、ある楽師の一座を見かけた。 楽師なんて珍しくもないのに、何故か胸騒ぎがしたんだ。 「これはこれは、門番殿。お勤めご苦労様でございます」 検問に応じたのは、糸目の穏やかそうな男だった。 声に聞き覚えがある気がするんだが・・・ 「積荷は何だ、開いて見せてみろ」 「はい。舞台衣装や楽器、調度類でございます。 ご覧の通り、私どもは国渡りの楽団でございます故に」 「ふむ、通行証も確からしいな。これから何処へ?」 「はい、水穂の官僚様のお邸に滞在することになっております。 我々の舞姫をご所望と伺いましたので」 ”舞姫” 俺はその言葉に耳を傾け、そして・・・ 荷馬車から毀れた一束の栗毛を、見逃さなかった。 「・・・ッ!!」 僅かな期待は、確信に変わり・・・ 気付いた時には、全速力で荷馬車に駆け寄っていた。 無我夢中で、足が縺れるのも無視して。 そして、 「季沙ッ!!」 夢中で馬車の正面に回り、腕を伸ばした。 花柄の絹を着た細い肢体を、毟り取るように引き寄せる。 「きゃぁッ・・・」 突然の事態に、小さな声が漏れる。 状況を飲み込めないのか、季沙は瞳を開け放った。 6年前と変わらない、萌黄色の瞳を。 「え・・・・・・う、嘘・・・は・・・・・・るか、くん・・・?」 「季沙、元気そうで安心した!」 季沙は、記憶や想像よりもずっと美しく成長していた。 細い手足はすらりと伸びて、艶やかな頬には染み1つない。 ポロポロと涙を零す双眸も澄んでいる。 「・・・かくん、遥くんッ・・・会いたかった・・・!!」 俺達は6年ぶりに抱擁を交わし、お互いの無事を喜んだ。 もう・・・絶対に、に離すものか。 そして、再会から一月ほど経った頃。 貴族の邸に滞在する予定だった季沙を、家に引き取った。 お互いの仕事を終えてから朝まで、他愛ない時間を過ごし・・・ 離れていた距離をゆっくりと縮めていった。 「季沙、まだ寝ないのか?」 俺は、あくびを堪えて布団から這い出した。 すると、季沙は行燈の下で、もぞもぞと指先を動かしている。 「明日使う楽器の手入れなの、終わらせちゃわなきゃ」 「古琴の弦の張替えか・・・よし、俺も手伝うよ」 「疲れてるのにいいの?」 「いいも悪いも・・・季沙は不器用だからなぁ」 手元をよく見ると、細い指先は小刻みにカクカク震えていた。 こんな手付きじゃ、夜中かけても終わりやしないだろう。 「踊りはあんなに繊細なのに不思議だな」 そう言うと、季沙はいきなり、俺の背中に圧し掛かって来た。 柔らかな巻き毛が垂れて、サラリと頬を掠める。 「?」 服越しに伝わる微かな温もりが心地良い。 俺は作業を一旦中断して、腹に回された季沙の手を撫でる。 少し荒れて、ささくれていたけど、それも愛おしい。 「どうした?」 「どう踊ったら、遥くんの目に一番綺麗に映るかなって・・・ いつもそればっかり考えて、頑張ってた。 えへ・・・くっ付いてると暖かいね。すっごく暖かくて、安心する」 急に照れくさくなって、体中の熱が込上げてきた。 顔を逸らして、季沙の体を引っぺがす。 「あんまり引っ付くなよ・・・」 「・・・あ、照れてるんでしょ? 遥くんってば可愛い!」 「う、煩いなっ・・・なぁ、それよりさ」 「ん、なぁに?」 「楽団での仕事は辛くないか?」 「皆すごく良くしてくれるし、すごく楽しいよ。 私を買った団長さんも、いつも家族のことを案じてくれるし・・・」 「そうか、それなら良かった」 「それに・・・今は、遥くんが居てくれるから」 この時間のためなら、何を引き換えにしてもいいと思った。 ただ1つ、季沙以外なら何を失ってもいいと・・・ でも、運命は強暴だから。 「今日の仕事は何処で?」 身支度を整える季沙に、背中越しに尋ねた。 「一の谷の集落。金が沢山取れますようにって祈願に行くの」 「あそこは言わば最前線だし、一緒に行ってやろうか?」 「ううん、護衛の方が付いてくださるし平気だよ」 季沙は気丈に笑ったが、俺は何故か暗澹とした気分だった。 妙な胸騒ぎが、あっと言う間に胸を締める。 「・・・だけど、やっぱり」 「ねぇ・・・あのね、もうすぐ借金を返し終わるの。 そしたら、私、ずっとずっと遥くんの側にいられるんだよ」 「それ・・・本当か?」 「えへへ、そのためにもう一頑張り!! 早めに帰れると思うから、お夕食の準備しておくね」 ”もう少しで、一緒になれる” 俺は目先の喜びで、不安を掻き消してしまった。 この時、細腕を引いていればと、思わずにはいられない。 「あぁ、ありがとう」 やっと掴んだ光は、脆く儚かった。 ”死にたく、ないよッ・・・ ずっと・・・一緒に、生きて行きたかったよ・・・!!” 愛にも夢にも、永遠など在りはしない。 それを思い知らされる・・・ ―― 悪夢の一夜が、訪れる。 「・・・るか、遥ったら!」 私は、遥の片袖を思い切り引っ張った。 すると、尋常じゃないほど激しい反応が返ってくる。 「・・・ッ・・・な、何だよ?!」 「もうっ、やっぱり寝ぼけていたのね。 呆けてたら駄目よ。すぐ右上に、飛び出た岩があるの!」 そう言われて、初めて遥は我に返ったようだった。 右頭すれすれにある尖った岩を見て、大きく息を吐いた。 「・・・悪い、全く気付かなかった」 普段の遥なら、毒虫一匹見逃さないくせに。 「大丈夫なの、疲れてない?」 「・・・ほんの一瞬だけどな、懐かしい夢を見てたんだ。 それで、ついボーっとしちまっただけで・・・」 「それは哀しい夢・・・?」 「いや、違う違う。どっちかって言うと幸福な方」 それを聞いて、少し安心した。 傷の話をした時は、苦しそうな顔をしていたから。 「お前の方こそ、いい加減に疲れただろ。すごい汗だぞ?」 そう言われてみると、着物が体に纏わり付いている。 岩場にこもった熱で燻されて、喉もカラカラ・・・ 「そろそろ少し休憩するか」 「ええ」 私は頷き、比較的流れが緩やかな縁に腰を下ろした。 そして、裾を巻くって足を水面に浸してみる。 「わぁ、気持ちいい。遥も浸してみたら?」 膿を持った肉刺には沁みるけど、疲労は瞬間的に解れた。 温泉並みの効能に、鼻歌でも歌いたい気分。 「俺は今はいいから。 それより、体ごと濁流に持ってかれるんじゃないぞ」 「もうっ・・・いつまでも子供扱いして!!」 「・・・・・・あれ?」 一頻り怒鳴った後で、私は耳に違和感を覚えた。 こだまのような残響と、澄んだ水の音が重なって聞こえる。 これって、洞窟の外を流れる水の音なんじゃ? 私の聴覚がおかしくなっていないのなら、 「・・・出口、近いかもしれない」 「いきなり何を?」 急流の濁音は相変わらずなんだけど・・・ 「反響していない水の音が、微かだけど聞こえるのよ!」 人口の像があったのも、出口が近かったからよ。 確信を持った私は、遥にも黙って耳を澄ますよう促した。 すると、すぐさま遥の表情が変わる。 「確かに、出口付近にでかい瀑布があるらしいな」 「でしょう?! そうと分かったら早く先へ進みましょう、ねっ?」 久しぶりにお天道様を拝めると思うと、心が一気に弾んでくる。 足取りも急に軽くなるからつくづく単純だわ。 「桜、ちょっと待った! 地上に出たら、そこはもう連中の縄張りだ。 一つだけ注意しておくことがあるから、心して聞け」 「何か大事なこと?」 高揚した気分を宥めながら、私は遥の顔に向き直った。 「間違っても、お前は俺より先に死ぬな?」 「は?」 畏まって何を言い出すのかと思えば・・・ 緊張して損しちゃったじゃないのッ!! もっと他に、今注意すべきことはないのかしら?! 「私はね、這ってでも100歳まで生きてやるの。 あなたよりも先に死ぬ気なんか、さらさらないわよ!!」 「・・・・・・・・・・・は・・・ははっ」 遥は一瞬目を見張り、声を上げて笑った。 私には、その笑いが意図する所がよく分からないけれど・・・ 「おかしい?」 「いや、お前ならそう言うと思ったんだよ。 俺が恐れてるような末路は、意地でも辿らないんだろうな。 よしよし、お前はたくましいから安心だ」 お前なら、そう言ってくれると思ったよ。 俺の不安も弱い心も薙ぎ倒して、まず微笑うんだ。 何度でも・・・そう、何度でも。 信じるぞ。 大切な女が死ぬのはもう御免だ。 今度こそ、もう二度と。 「その心構えがあるならいい、行こう」 手と手を、重ね合わせる。 次頁へ続く *_____________________________________________________________________________________________________________*
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