仮)時をかける少女
                         
                          幸村希月




時は平安、仁徳帝の御世のこと。

京の都は三条に、とある姫君が暮らしておりました。
御位はたいそう高く、容姿教養も人一倍優れておりました。
噂を耳にした者は、その姫君を『清き白雪の君』などと呼ぶのです。

姫君は純粋で、快活な少女でございました。
人の目を避け、御簾のうちに隠れることをお好みになりません。
陽の下を駆けては、花のような笑顔をお向けになります。

恵まれた環境にありながら、下々の者を蔑むこともなく、隔てなく人を思いやる姫君。
全てにおいて特別な存在であり、不思議と人を惹きつけなさいます。
殿上人はこぞってこの姫君に心惹かれておりました。

―雪姫、御歳十四歳でございました。




「姫様っ、雪姫様はこちらですか?!」
真新しい木の香りのする邸に、奈津の声が響き渡る。
昼下がりの陽光を浴びた廊下を、奈津はパタパタと足早に駆けていく。
「なんですか、奈津さん。騒がしくしては、大臣のお叱りを受けますよ。」
「あ、中の君さん。姫様がどこにもいらっしゃらないのです。お見かけしませんでしたか?」
宮家下がりの落ち着いた女房は、首を横に振るった。
「こちらにはいらしていませんよ。
庭の池は探したのですか?姫様の事です、また鴨とでも戯れておいででしょう。」
中の君は呆れた様に言い、ふっと柔らかく微笑んだ。
「あっ、きっとそうですね。行ってみます!」
まったくもう、姫様ったら!
あの放浪癖をどうにかしてほしいものだわ。

緋の長袴をたくし上げ、中島に近い釣殿まで来た奈津は、一つの影を見つける。
影は大きく伸びをして、ばしゃばしゃと音を立てて水と遊んでいる。
「ひっ・・・姫様!!」
そう、池に足を浸したこの影こそ、当家の三の姫様なのです。


「・・・ん?」
私は呼び声を聞いて振り向いた。
その先には息を切らした女房、奈津が立っている。
「春は暖かくて好きだから、鴨に餌をやっていたの・・・ど、どうしたの。そんなに慌てて。」
奈津の衣はすっかり乱れ、憔悴しきっていた。
「奈津はずーっと姫様をお探ししていたのです!!大臣がお呼びですよ。」
「・・・父様ってばうるさいの、最近口を開けば『結婚しなさい』なんだもん。」
まだ十四歳なのに、裳着をすませてから毎日じゃない。
はっきり言って、もうウンザリよ。
「姫様のお気持ちはよく分かりますよ。
ですが、大臣としても可愛い末娘に幸せになって頂きたいのですわ。」
奈津は年上らしく、私をたしなめた。
「私は、結婚なんてまだしたくないのに!!」

私の名前は、雪。
大臣って言うのは、私の父君で、内大臣・藤原義時のこと。私はその三の姫なの。
まぁ、父様の気持ちも分かるのよ。
私の姉君は二人ともご立派で、一番出来が悪いのが末娘の私。
一の姫の茜姉様は、薫物の名手で、帝の女御として入内したの。これには父様は大喜びよ。
二の姫の葵姉様は、とても美しい才女で、若くして権大納言様にお嫁入りした。
だから、私にも将来有望な公達と結婚して、幸せになってほしいと思ってるんでしょうね。
最近では『東宮様に入内しなさい』なんて言うのよ。
頭でもおかしくなったのかしら。
東宮様って言ったら、次代の帝になられる方よ?
なんでも、今東宮様は私と年も四つ違いで近いし、未だに女御様がいらっしゃらないからだそうよ。
噂によると、すごく頭の良い誠実な方らしい。
でも、後宮に入るなんて絶対嫌!!
今はいなくったって、いずれたくさんの女性が東宮様の元に入内する。
大勢の中の一人なんて、私は絶対に嫌だわ。
私はたった一人の運命の人を見つけたいの。
そして、相手にも・・・私一人を好きでいてほしい。

「だーかーらっ、私はまだ結婚なんかしたくないの!!何度言ったら分かってくれるの?!」
「お前は美しい。引く手数多なのだから、行き遅れる前にだね・・・それに、望めば中宮にだって」
「いーやーだーって言ってるでしょぉーっ、結婚相手くらい自分で決めたいんだから!!」
私の堪忍袋の緒がついに切れて、父様の部屋を飛び出した。
「これ、雪!!待ちなさい!!」
父様の声なんか、いっそ聞こえなくなってくれればいいのに。

・・・私は、絵物語に憧れてるの。
そうね、例えば・・・源氏、落窪、伊勢、狭衣。
恋に身を焦がした女性達、私もそんな風に生きてみたいと思うのよ。

「大臣が嘆いておいででしたよ、姫様。」
奈津は鏡箱を二階棚に乗せると、大きくため息をついた。
「何度断っても諦めないんだもん、私にだって我慢の限界があるわ。」
「そんなにお嫌ですか?
宮中に上がり女の栄華を極めてはいかがですっ、奈津もお供いたしますから。」
奈津がテキパキと仕事をこなしながら、ふてくされてる私に尋ねた。
「愚問ね、絶対嫌!!
私は静に暮らしたいの。私が入内なんかしたら、奈津だって心労で死んじゃう!」
「奈津は惜しい気がしますけどね。お綺麗なのに・・・。」
「昔から思ってたけど・・・私、十人並みじゃない?」
私はなぜか『白雪の君』って呼ばれるようになった。
でも、私より姉様達のほうがずっと綺麗だし、奈津だって私よりは整った顔立ちをしてると思うわ。
「十人並みだなんてとんでもない!
色白ですし、御髪の見事なこと・・・姫様以上の方はそうおりませんって。
自信をお持ちくださいな、姫様付きの女房であることが奈津の自慢なのですからね!!」
奈津はガッツポーズをして答えた。
その気迫があんまりすさまじくて、私はなんだか逆に気圧されてしまった。
「う、うーん・・・?」

私は、源氏物語に憧れを抱いてる。
源氏に恋した女人は、とても素敵だわ。
どんなに苦しくても、どんなに寂しくても、愛した人を諦めない。
何度裏切られて涙しても、それが憎しみに変わっても、己の信じた道を歩み、決して離れようとはしない。
普通の、どこにでもいる姫君なんかになりたくない。

人は誰でも、いつか消える瞬間が来る。
そんな時に「私は私です。」と、誇れることを残したい。
私も、そんな情熱がほしいの。
そんな生き方を・・・私、したい。




今夜はなんだか眠れないな・・・。

私は御帳台から出て、こっそり寝殿を抜け出した。
高欄にもたれながら、空を眺めると、望月が顔をのぞかせている。
「姫様、まだ起きておられたのですか?!
内大臣家の三の姫ともあろう方が、そんなに端近にお寄りになって!!お早く母屋にお戻りください?」
「ちょっと寝付けないから、もう少しここにいたいの。」
「何か物語でもお読みしますか?」
「ううん、奈津はもう休んでいいのよ。」
「そうですか?それでは、奈津はお先に失礼いたします。お風邪など召されませぬよう。」
「大丈夫、もうお休み。」
奈津は心配そうな顔をして私を凝視している。
「お休みなさいませ、姫様。」
ペコリと一礼して、奈津は下がった。
本当に出来た女房だなぁって、つくづく思う。
奈津は私の乳母の娘で、乳兄弟にあたる十九歳の女房。
私達は私が六歳の頃から一緒にいて、私が心から信頼を寄せるのは奈津だけなの。

「ふぅ・・・」
今夜は望月、明日からは月が欠けていく。
最近ね・・・月を見てると、なんだか寂しくなるのよ。
理由は分からない。
まるで、なよ竹のかぐや姫みたいに。
欠けていく月明かりは、私の儚い一生みたいな気がしてならないのよ。
つまらないなぁ・・・
私の一生は、こんな風に過ぎていってしまうのかしら。
平凡に、そして忙しく・・・。



  カタンッ…

「誰っ?」
誰もいないはずの廊下に物音が響いた。
かすかに妻戸が揺れている。
こんな夜遅くに変ね・・・ま、まさか夜盗とか物の怪じゃないわよね?!
そう考えると、体が強張った。
「右近?若菜?夜更けに冗談はよしてってば。
もうっ・・・十数えるうちに名乗りなさい、名乗らぬ場合は人を呼びます!!」
薄暗い廊下に私の怒鳴り声が響くと、間髪いれず小さく囁く声がした。
「・・・真に頼もしい方だ。私の負けですね・・・ご機嫌麗しゅう、姫君。」
そう言って南向きの妻戸の影から現れたのは、長身の男性だった。
「月の下に美しい姫が座っておられるので、天女と見紛ってしまうところでしたよ。」
そう言って、男は朗らかに笑った。
奥の深い漆黒の瞳、整った口元、流れる黒髪、よく見ると男は眉目秀麗だった。
杜若の直衣を着ている所を見ると、身分も悪くない。
言葉遣いや立ち振る舞いも雅だわ・・・危ない人ではなさそう。
「今宵の月によく合っていてよ。
あなたは邸の者ではないみたいね。あぁ、父様のお客様なの?」
私は男をじっと見て尋ねた。
「・・・名や身分はお明かし出来ませんが、こちらの大臣の縁とだけ申し上げておきましょう。」
父様の縁か。私は会ったことないけど、嘘じゃなさそうね。
「姫君は、内大臣殿の三の姫とお見受け致しますが?」
「そうよ、雪というの。あの、怒鳴ったりしてごめんなさい?怪しい者だと思ったから、つい。」
「存じておりますよ。お気になさいますな。
どうです、姫。しばし私の話し相手になって頂けないだろうか?」
かなり失礼な言い方をした私を責めずに笑った。
私、この人ともう少し一緒にいたいな。退屈だし、父様の知り合いだし、いいよね。
「いいわよ、私も眠れなかったから。」
「だから、月を愛でていたのですか。」
「そうよ。星も月も綺麗で好きだから、今夜はこうして夜を明かそうと思って。」
私は月に向かって、細くて折れそうな手を伸ばした。
「ホラ、届きそうでしょう。本当はずっと遠いのに、こんなに側にいる。」
寂しそうな私の細い肩を、月の光が優しく撫でた。
「吸い込まれてしまいそうですね。」
雲が晴れたのか月の光がいっそう増して、男の顔がよく見えた。
本当に竹取の絵物語を見てるみたい。
「姫は、まるでかぐや姫のようなお人ですね。
なよ竹のかぐや姫は、毎晩月からの迎えを待っていたのですよ。まるであなたのように。」
同じ事を考えてたんだ・・・なんだか嬉しいな。
直感で分かる。
この人は私と一緒で、物語のような、たった一人の誰かを待ち続けている人だ。
私は共感を覚えずにいられなかった。
「知ってるわよ、本を読むのは好きなの。私がかぐや姫なら、さしずめあなたは月読の精ね。あ!」
私は思い立って軽く手を叩いた。
「ねぇ、名前が分からないと不便だし、あなたのこと『月の君』って呼んだら嫌かしら?」
「上手いことを仰いますね、どうぞ如何様にもお呼びください。」
ふふ、まるで物語の中みたい。
「では姫君、私を月読の精として、もしお迎えに上がったら・・・共に来てくださいますか?」
月からの迎えが来たら・・・かぁ。
予想していなかった突然の質問に、私は頭を捻った。
かぐや姫は翁や帝の言葉や、人間界への名残惜しさからずいぶん悩み、空へと帰っていった。
翁たちが末永く幸せであるように祈りながら。
じゃぁ、私は・・・?
「うーん・・・一緒に行くわ。だって色んな冒険をしたいし、天上界はきっと素敵よ!」
結婚話に嫌気の差す毎日もない。
貝合わせや囲碁をして、退屈を紛らわすこともない。
”今”から解脱できるなら、何処へだって行きたい・・・。

「好奇心旺盛な姫君だ。姫と一緒なら、万里の旅も楽しいでしょうね。」
「そしてね、地上では学べないことをいっぱい学んでくるわね。恵まれない人の役に立てたらいいと思うから。」
「恵まれない人?」
月の君はキョトンと目を丸くした。
「私やあなたは、たまたま由緒ある家に生まれた。
だから、今こうして贅沢な暮らしをしていられるけど、違う人は大勢いるわ。
困窮して飢えに苦しみ、寒さを凌ぐ術も無く、役人の横暴に泣いている・・・そんな人が都の外れには溢れてる。
私はよく外に行くから、普通の貴族よりは知ってるつもりよ。
私たちは裕福な暮らしをしているからこそ、そういう人を思いやらなければいけない。そうでしょ?」
「仰るとおりです、お優しいのですね。」
「主上や東宮様は、そういう人達を守るためにいるのよ。
人の上に立つ人は、位階を持った一部の人だけを見てるんじゃなく、薄幸な人こそ視野に入れるべきだと思うわ。」
周りの人は違うけど、私だけは・・・弱い人たちを守れる人間でありたいと思う。

「・・・あなたは賢人ですね。
そのお言葉を今上や東宮のお耳に入れたら、たいそう喜びなさるでしょう。」
「内緒よ、小娘の戯言なんだからっ!!」
平凡な毎日にはうんざりしていたから、この人の言葉は私にささやかな夢を見せてくれた。
さっきね、一緒に月への万里を歩みたいと思ったのよ。
「普通の姫君じゃないから、私。姉様みたいになりなさいって父様はいつも言うけど。」
考えるだけで、あの喧しい『結婚』を連発する声が聞こえてくるようだわ・・・。
彼は檜扇を口に当てて、つつまし気な様子を見せている。
「麗景殿の女御様と、権大納言の北の方様ですね?」
「そう。とっても優しくて大好きっ!・・・ただね」
私は無防備な満面の笑みを浮かべ、すぐに言葉を濁した。
「どうかしましたか?」
俯いた私に、月の君はどこまでも優しかった。
「・・・お嫁に行っちゃったのが、少しだけ悲しいのよ。」
二人とも大好きだった。
姉様達は優しくて、フンワリいい香りがするの。
習字や和歌や薫物、他にも色々なことを姉様達から教わった。


(葵、雪、頂き物の瓜があるの。一緒に食べましょう、こっちへいらっしゃい。)
(わぁーい!!瓜大好き♪)
(雪は、今日はお習字のお稽古の約束だったでしょう?)
(えぇっ・・・明日やるから!!)
(だーめ、瓜は終わってから頂きましょうね♪)
(あかね姉さま助けてぇっ、いーやぁーだぁーっ!!)
(お勤めご苦労様、葵。雪、観念していってらっしゃい。待ってるから安心なさい、ね?)
(約束ねっ、絶対!!)
(はいはい・・・しょうがない子ねぇ、ふふっ。)

あれは茜姉様が十六歳、葵姉様が十三歳、私が六歳の頃だったかな。
年の離れた姉妹だから、いつも困らせてばかりだった。
それでも、あの時間は輝いていたの。
いつまでも一緒だと思ったのに、二人とも今はいない。滅多に合えないのが少し寂しいだけ。
もう戻れない、懐かしい日々が戻ったら・・・。
少しだけ、あの陽だまりに帰りたいって思うわ。

「そう寂しがられることはありませんよ。
今度、中宮が催す歌合せがあるのですが、女御は大切な妹姫を参内させたいと仰っていました。
帝も中宮もお喜びでしたので、きっとお声が掛かりますよ。楽しみに待っておいでなさい。」
本当なのかなぁ・・・?
それに、中宮だの帝だのって、ずいぶん親しそうな感じがする。
「・・・月の君、姉様や中宮様を知ってるの?」
「あ、いえ、出仕した時にたまたまお聞きしたのですよ。
ゴホッ・・・時に姫君、大変申し上げにくいのですが・・・姫はもう殿方をお迎えする年頃でしょう?」
月の君は照れたように顔を赤らめ、長いまつ毛を伏せて咳払いをした。
「十四歳なったけど・・・それが何か?」
月の君は私を一瞥することもなかった。
「あのですね・・・その、扇も持たずに単姿で出歩いてよろしいのですか?
夜は冷えますし、仮にも私は男ですし・・・。」
あぁ・・・コレか。
私は今、一単しか羽織っていない。
女性にあるまじき私の格好を見て照れていたのだと気付き、私も少し照れた。
殿方相手に軽率すぎたかな。
「上着も扇も邪魔なだけなんだもん。でも、本当に冷えてきたね・・・・くしゅっ・・・」
夜の風は湿って冷たく、月の君が思惟したように小さなクシャミがこぼれた。
「ホラ、ごらんなさい。
お風邪を召されては、ご家族が心配なさいますよ。風除けくらいにはなれますから、こちらへいらっしゃい?」
「あっ、えっと・・・うん。」
月の君が直衣の袖を広げて、私を招き入れてくれた。
着やせする人なのかな、肩も胸も思ったよりたくましい。
それに、薫物がすごくいい香り。
広い腕の中は、とっても暖かくて心地いい。
男の人って言うのは、こんなに安心できるものなんだなぁ。
「暖かい。ふふ、父様に見つかったら何て言われるかしら。」
私は生まれて初めて、男性に猫撫で声で甘えた。
私・・・きっと、この人が好きだ。
会ったばかりで軽率だけど、きっと好きになったんだわ。
それなら、こんなに安らぐのも合点が行く。
「大臣は誤解なさるかもしれませんね・・・姫、あなたには通う殿方がおいでですか?」
心の蔵が飛び出すほどビックリした。
好きかもって思った瞬間、恋の話だもの。
でも、『あなたが好きみたい』って言うのはまだ止めておこう。
「文はとにかくたくさん来るし、父様も毎日『この公達と結婚しなさい』って勧めに来るわ。
でも、そういう人はいないわよ。なんて言われても、まだ結婚なんてしないわ。」
「何故です?姫を妻にと望まれる男は多いでしょうに・・・。」
「だって、まだ恋してないんだもの。物語みたいな恋をしてみたいの、私。」
・・・あなたと、したい。
私は月の君をまっすぐ見つめた。
あなたにも、私を見てほしいわ。
「そっ・・・そんな可愛らしい瞳で私をご覧になっても、私は誰も推挙いたしませんよ?!
恋の相手なら御自分でお捜しなさい!!」
ち、違う。
「そんなつもりじゃないったらっ・・・誰にも左右されず自分で探すつもりよ、赤い糸で惹かれあうたった一人をね。
一度きりの人生だもの、見つかるまでは足掻いてやるのっ!」
「ふふ、姫君らしいお答えですね。」
「私は普通じゃないし、十人並みだし、時間はかかるでしょうけどねぇ。」
苦笑いをした。
謙遜ではなくて、ホントに長期戦になると思うから。
「そんなことはありませんよ、普通の姫君です。
それに、姫はこれから華麗な花のように、もっとお美しくなられますよ。」
「や、やだっ・・・照れるじゃない!!本当に口が上手いのねっ・・・」
私の顔は、桜桃のように耳まで真っ赤になってしまった。
歯が浮くような台詞を、月の君は恥ずかしげもなく、サラッと言い放つ。
「はははっ、本当ですよ。
ねぇ、姫。
いつまででもお待ち致しますから、私もその『たった一人』に立候補してよろしいですか?」
私の理想に立候補してくれるの?
自分の耳を疑ったけど、嘘じゃないようだ。月の君も・・・私を?
「・・・ほ、本気なの?」
私の問いかけに、月の君は笑顔で頷く。
月の君は大人だ、私よりずっと。
こっちは照れていても起ってもいられないのに、余裕なんだもん。
「・・・かっ、考えておくわ。」
嬉しさに顔がほころんで、私は顔を隠さずにはいられなかった。
「ありがとう存じます。では、お約束の印に・・・」
「え・・・?」
そう言って私の手を引き寄せて、私の手の甲に静かに口付けた。
月の君はそのまま私を見つめて言った。
「続きはまた今度致しましょう・・・ね。」
「つっ・・・つつっ、つきっ・・・つき?!」
私は慌てて後ろに飛び退いた。
悔しいけど、月の君は私より何枚も上手だわ。
胸が高鳴って止まらない・・・。
「さて・・・そろそろお暇申し上げますか。今宵お会いできて嬉しゅうございました。」
月の君がそう言って立ち上がると、眩しそうに朝日を浴びた。
もう夜明けか。夜明けなんて来なければいいのになぁ・・・そしたらずっと一緒にいられるのに。
「・・・もう帰ってしまうの?」
「私にも勤めがありますし、あらぬ噂をたてられては姫にはよくない。」
私が袖をつかんで離れるのをためらうと、月の君はフッと笑って髪を撫でた。
「じきに夜明けですから、夢は現とともに去りましょう。」
私、月の君はそれなりに高い官位のある公達だと思うの。
とても風流で、一般人では有り得ない。

少し顔を出し始めた朝日に照らされた月の君は、いっそう輝いて、荘厳な姿をしていた。
月の君の顔から目が離せない。月の君、光源氏みたい。
「月の君、あのっ・・・またいらして。約束よっ?」
お願い、あなたを縛る鎖がほしい。
引き止めたくても、それが出来ないから。
あなたが私を忘れてしまわないか、少しだけ不安なの。
あなたのことを何も知らないから、小さな約束で・・・あなたを縛るしかないの。
お願いよ、もう一度私の元に来て?
あなたの声を忘れないうちに、迎えに来てください。
「ええ、必ず参ります。それでは、ご機嫌よう。」
まるで逢瀬を重ねる男女みたい。
見送る私も、帰路に着く月の君も、まるで美しい絵物語のように輝いた。

小さな約束を残して、月の君は去った。
この一晩で、私は彼に恋をする。



月の君は、嘘を言わなかった。
あの望月の夜から一ヶ月経って、姉君から歌合せの招待の文が届いた。
そして、陰陽道で良き日を選び、私は歌合せのために内裏へ上がったわけなの。
だけど、私は後宮へ上がってすぐ熱を出し、忌みを厭い、残念なことに歌合せには参加できなかった。
だから病が完全に治った今日、私は初めて姉様と顔合わせを許されたの。
権大納言様に嫁いだ葵姉様も歌合せに呼ばれて参内していたから、数年ぶりに姉妹がそろうの♪
・・・姉様に会えるのはとても嬉しいんだけど、十二単は重くて苦しいよぉ・・・。

「茜姉様、葵姉様、お久しぶりですっ!お元気そうで何よりです。」
参内してから姉様に会うまで、ずいぶんと長い時間がかかったなぁ。
茜姉様の麗景殿に通され、姉様達の元気な顔を見ることができて、十二単の苦痛は吹っ飛んだ。
「雪こそ突然熱を出すなんて、もう具合はいいの?」
「はいっ、もう大丈夫です。頑丈なのだけが取り柄なので!」
「あら、それなら良かったわ。文だけではあなたの様子は分からないし、心配していたのよ。」
茜姉様、すごく幸せそう。あ・・・いい香り、変わってない。
葵姉様もますます綺麗になって、二人とも憧れるなぁ。
「姉様、歌合せはどうでした?」
「とても良かったわよ。特に東宮様が詠まれたお歌が素晴らしかったわね。」
「出席できなかったのは残念だったけれど、今後たくさんの機会がありますからね。」
「はぁい。本当の所言いますと、お歌よりご飯の方が好きなんです。今度はお食事会に誘ってください?」
「ふふふっ、この子は。」
茜姉様は苦笑して、私の頭にコツンと指を押し当てた。
「雪が相変わらずで良かったわ。さ、ご挨拶なさい。中宮恭子様ですよ。」
姉様が手を伸ばした先には、いかにも上品そうな三十代前半の女性が静かに控えていた。
御歳十八歳の東宮様をお生みしたようには見えない程、中宮様は若く輝いている。
「あっ・・・ごめんなさい。」
再会にはしゃぐ私は、やっとその存在に気付いた。
中宮様にご挨拶も申し上げず、私ってばなんてご無礼をっ・・・
「中宮様っ、お初にお目にかかります。藤原雪と申します。」
私は深々と頭を下げた。
「かしこまらなくて結構ですよ。」
あいさつすらすることを忘れていた私を、中宮様は詰りはしなかった。
うわぁっ・・・鈴が鳴るみたいな声。
それにとっても綺麗。端正な顔立ち・・・あれ、気のせいかな、誰かに似てる気がする。誰だっけ?
「可愛らしい妹君で、女御様も葵姫様もお羨ましいことね。お会いできて嬉しいわ、雪姫様。」
「可愛らしいなんて、そんな滅相もない!」
私に向けてソッと差し出された手がとても嬉しくて、繋いだ少し手が震えた。
素敵な方だなぁ、こんな人になりたいな。
柔らかい物腰・・・触れた手から、温もりが伝わる。
「おてんばでまいっておりますのよ、もう少し落ち着きが出たらと父も嘆いております。」
「元気な方がいいわ、私の息子など可愛げも何もないのですもの!」
ツンと言い放った言葉の一つ一つにも、愛情が溢れていた。
「息子・・・と言いますと、東宮様ですね。」
「そう、暁仁親王ですわ。東宮になられた頃から、妙に大人びてしまいましたの。
立派な殿方になったのだから仕方のないのですけれど、成長というのは母親としては寂しい時もありますのよ。」
私もです。
僭越ながら、その気持ちが雪にはよく分かります。
成長して嫁いでいく姉様達。
成長したから、勤めに追われて帰っていった月の君。
成長したために、体裁を気にして月の君を引き止められなかった私自身。
巣立っていく小鳥達は、独り立ちを喜ぶ半面、その巣から飛び立つのを悲しんでいる。
私はその小鳥、中宮様は親鳥だわ。
変わっていくのが、少し怖い。
私も月の君も・・・これからもっと変わっていくのかなぁ?
「何を仰いますか。東宮様はお優しいお方ですもの、中宮様を大切に思っておいでですわ。」
それでも、子供は前を向き、新たな生活を見つけ大きくならなければならない。
決して懐かしいすべてを忘れないよう誓い、新しい幸せを探していく。
「ふふ、葵姫様ありがとうございます。
では、ご姉妹で積もるお話もあるでしょう。私はそろそろ失礼しますわ、お三方。」
だから、私もいつまでも悲しんでちゃいけないよね。姉様、月の君。
月の君、あなたを信じて待ってます。
だから、あなたを忘れぬうちに、早くおいでください。
「中宮様、ありがとうございましたっ!」




「弘徽殿の中宮、麗景殿の女御、権大納言家の奥方、内大臣家ご息女、おいでになりました。」
淡路という古参女房に連れられて、私は清涼殿にやって来た。
今まさに、国の要の主上にお目に掛かろうとしている所。
「こちらへ。」

うわぁ・・・緊張するっ!!
今日は、歌合せに出席できなかった私を気遣って、帝が昼御座に呼んでくださったの。
でも、たかが女御の妹が来るだけで、このそうそうたるメンバーって絶対おかしいってば。
帝に東宮様、帝の弟宮の中務卿宮様までいるんだもん、クラクラして冷や汗が出てきちゃった・・・。
姉様や中宮様がいらっしゃるのが、唯一の救いだわ。
「ようこそ、女人方。姫君にあたっては、初めまして。」
みっ、帝が私に挨拶してるっ!!
近寄りがたい雰囲気なんて全然ない、帝は穏やかな物腰をしていた。
「本日はお招き頂きありがとうございます、帝。東宮様。中務卿宮様。
内大臣藤原義時の娘、雪と申します。」
「顔を上げなさい。言うなれば私はあなたの義兄、硬くならなくて良いのだよ。」
「そうですよ、主上は気さくなお方ですからね。ここには気心の知れた相手しかおりませんし。」
主上も中宮様も、震える私に優しい言葉をかけてくれた。
東宮様のお顔は見えないけど、中務卿宮さまもニコニコしてる。
姉様はここで生活してるんだ。姉様のお側にいる方がいい方ばかりで、何だか安心した。
「はい、ありがとうございます。」
私がひれ伏した体をゆっくりと起こすと、扇で顔を隠した男性人から感嘆の声がこぼれた。
「ほぉ・・・噂には聞いていたが、これ程美しいとは・・・大臣や女御が可愛がる気持ちが痛いほど分かる。」
「恐れ入ります。」
「兄上、若い姫を口説くなど感心いたしませんね。姫、お気を悪くなさらぬよう。」
わっ、中務卿宮様・・・素敵な低いお声。笑いかけてくれる顔から気品があふれてる。
確か御歳二十二歳になられたのよねぇ。すごく大人っぽい・・・かっこいいなぁ。
「くっ、くどいてなどおらん。私には中宮も女御もおるのだから。
ただ、お前か東宮に姫が入内したら、可愛い孫が生まれるだろうなぁ・・・と思ったまでだ。お前達も思わぬか?」
「父上、お戯れを・・・。」
東宮様は小さく反論なさった。
・・・あれ、この声。もうちょっと話してくれないかな。どこかで聞いた・・・?
「まったく歳を取りましたわねぇ、主上。
私、暁仁には好きな女性と恋をして、幸せになってほしいと考えておりますの。孫の心配なんて早くてよ?」
「主上、妹が東宮様に嫁ぐようなことがあれば、父が心労で倒れてしまいますわ。お戯れご勘弁くださいな。」
「女御、あなたまで中宮に毒されて・・・私に賛同しておくれよ。」
「まぁっ、ふふふ。」
「けれど、素晴らしい姫君とのお噂をかねがね。
あなたのような明るい娘がほしいと、私本気で思っておりますのよ。」
「まぁ、中宮様までそのような・・・困りましたねぇ、雪。」
後宮って言うのは、華やかよねぇ。
皆さんいい方だけど、やっぱりこの堅っ苦しい雰囲気は息がつまる・・・罰当たりだけど、帰りたいよぉ。
「姫君、私と外へ参りませんか?」
え?
中務卿宮様が、私の十二単の唐衣をつかんで立ち上がった。
「えっ・・・中務卿宮様、あの?」
いいのかな、帝がいらっしゃるのに勝手に出て行っちゃって。
「もう少し姫とはお話したいのだが、宮?」
「宮、もう少しごゆっくりなさってもよろしいではありませんか。」
すかさず中宮様が、もう一方の袖をつかんだ。
「顔色が優れませんので、外の空気でもと思ったのですよ。どうぞ、安心して私にお預けください?」
「あっ」
一瞬目の前が真っ白になって、体が宙に浮いた。
気付いたら、見える景色が横向きになっていて、足がふらふら揺れている。
私は中務卿宮様に抱えてられているらしい。
「参りましょう、姫君。」
宮様の突然の行動に、あたりは騒然としている。
「あのっ、ちょっ・・・宮様?!・・・ごっ、御前失礼いたしますっ!」
私を抱いたまま、中務卿宮様はヒラリと踵を返して昼御座を出た。

「・・・暁仁、追いかけなさいな!!あなたは私の子ですもの、雪姫をお好きなはずでしょう!!」
「母上、落ち着いてください。」
「落ち着いてなどいられませんよ!!私、雪姫様が好きですの。宮が姫を娶ってしまっては困りますっ!」
「宮には姫を連れ出すよう、頼んだのですよ。」
「暁仁、頼んだとは何故だ?」
「・・・この機会にお話したいことがございます。特に女御、そして葵姫に。」
「い、いかがなさいました、東宮様?」
「実は・・・」


「あのっ、中務卿宮様?」
宮様にだっこされたまま、清涼殿の庭にやってきた。
「無理やり連れ出して申し訳なかったね。姫があんまり退屈そうにしているものだから。」
うっ・・・バレてる。
「いえ、そのっ、決して退屈なんてっっ・・・」
私は焦って否定し、手を振り回した。
「余計なお世話でしたか。失礼致しました、では今から戻りましょう。」
宮様は内裏に向かって歩き始める。
も、戻りたくないっ!!
「あのっ・・・本当はしてました・・・ケド。」
「ははは、本当に素直な姫君なのですね。」
遊ばれている・・・宮様はお人が悪い!!
やわらかい笑顔の裏には、絶対裏があるわ。
「皆さんとてもいい方で大好きなんですが、御所の雰囲気は苦手で・・・連れ出して頂いて助かりました。」
「東宮が『姫を連れ出してやってください』とおっしゃったのですよ。」
「東宮様が?」
東宮様のお顔は見えなかったけど、あちらは私のこと見てたんだ。
「ええ、お礼なら東宮にお言いなさいね。・・・ときに、あなたは羽が生えているように軽いですね。」
「な、中務卿宮様っ・・・下ろしてくださいっ!」
ひえぇぇえっ、ずっと忘れてたけど、私ってば宮様にお姫さまだっこをされてたんだった。
その上抱きしめられるなんて、私お嫁にいけないっ・・・!!
「冗談が過ぎましたね。あなたももう大人の女性、抱えあげるなど不躾でした。」
中務卿宮様は、大事そうにゆっくり私を下ろした。
た・・・助かった。
「実は私もね、姫とお話したかったのですよ。」
「私と、ですか?」
「そう、とある男から『月夜のかぐや姫』の話を毎日のように聞かされて、その姫に興味があったのですよ。」
とある男から『かぐや姫』の話を?
「あーっ!!」
私が宮様の言わんとしたことに気づいて叫ぶと、中務卿宮様は耳を塞いで微笑んだ。
月の君の柔らかで端正な顔立ちが頭に浮かんできた。
宮様は、私達だけの竹取をご存知なんだわ。
「宮様、月の君をご存知なんですねっ?!」
月の晩のことを知っているのは、私と月の君だけよ。
「ええ。彼とは幼なじみなので、よく見知っておりますよ。」
「月の君はお元気ですかっ?
私には月の君のことは何も分かりませんから、少し不安だったんです。もしかしたら夢だったのかな・・・なんて。
宮様、月の君は私のこと何て・・・ねぇ、月の君のことを教えて、宮様!」
「ぐっ・・・ひ、姫!!」
「あっ・・・ごめんなさい」
嬉しさに我を忘れた私は、宮様の胸座をつかみ、平橋の柱に向かって押し倒していた。
私は直衣からパッと手を放した。
だけど、宮様は直衣のしわを払い、苦しげに不機嫌そうな顔をしている。
「まったく不愉快極まりない。」
宮様怒ってる。ど、どうしよう。
心臓がすごい勢いで振動し出した。
宮様は私のほうを見ようとしない。私はオロオロして、自分の振る舞いを後悔して止まなかった。
私、仮にも今上の弟宮になんてことしちゃったんだろう。
「ごっ・・・ごめんなさい、あのっ・・・私!!」
父様、姉様、お二人や内大臣家にご迷惑をかけることになった、その時は・・・雪は出家を。

「・・・ぷっ、あははははっ!!」
ぷっ・・・?
私はいまいち事態が飲み込めない。
「宮さ・・・ま?」
「嘘です。
あなたは本当に純粋でいらっしゃる。構いませんよ、妹のように親しみを感じているところですから。」
「み、宮様ぁーっ!!
私、本当にビックリしたんですからね!!お怒りを蒙り、父様まで害が及ぶことになったら、尼になろうとっ・・・」
怖くて少し涙が出たよぅ、宮様は意地悪だ!!
「ころころと うくもしづむも いとしらし たわむれさそふ ゆかしすずのね」   (引用:きらきら馨る、鈴音の帖)
そう詠いながら、宮様は私の涙を指で拭った。
私が落ち込んだり騒いだりするのが可愛いから、つい意地悪したくなる?
「月の君は顔をほころばせながら、あなたのことを話していましたよ。
真っ白い雪のように心清き姫で、将来は自分の北の方としてお迎えするのだ・・・とね。」
「月の君・・・宮様、雪はずっと待ってますからって伝えてください。」
月の君、私、参内してよかった。
あなたのことが少しだけ分かって、少しホッとした。
もう泣き言なんて言わないで、ずっと待っています。あなたがお帰りになる日を。
「必ずお伝えいたしましょう。彼は果報者ですね、姫のような方に想われて。」
「ふふっ」
足取りが軽くなって、頬が赤く染まった。
それと同時に
「・・・彼はやめて私にしませんか?」
ポカンと口が閉まらなくなった。
「・・・何て?」
何がなんだか分からない。
私とは30センチほど差がある身体を折り曲げて、目線を私に寄せている。
「彼はやめて、夫は私にしませんか?」
「・・・ええっ、な、何それ?!」
「クスクス、だーかーら、私は姫に求婚したのです。
思慮深い彼と違って、私なら今すぐにでも姫を妻に出来るのですよ。」
2度目の繰り返しで、状況が理解できた。
「ほん、本気で言ってるのっ・・・み、宮様と月の君は幼なじみでしょっ?!」
「幼なじみとて、恋慕の情を立つことは不可能ですよ。
今ここであなたの手を引いて邸にお連れしたら、彼には手は出せませんね。」
何てことをっ・・・友達同士で敵になっちゃうってことでしょ?!
ま、まるで源氏の薫と匂宮みたいっ、素敵・・・とか言ってる場合じゃない!!馬鹿馬鹿!
余計な雑念が頭を過ぎって、何とか払おうと頭をブンブン振った。
「・・・あはは!!まさか本気にしたのですか?
コロコロと冗談にひっかかって、まるで仔犬のようだ。」
「宮様のお馬鹿ーっ・・・人を何だと思ってるのよぉ!!」



「東宮。麗景殿の女御と葵殿にはゆっくりとお話は出来ましたか?」
「ええ、ご了承いただきましたよ。」
「兄上と中宮様はさぞ喜んだでしょう。その場にいられなくて残念でしたよ。」
「ははは、姫を連れ出して頂いて助かりましたよ。」
「・・・雪姫は噂どおりの愛らしい姫君ですね。思わず抱き上げてしまいましたよ。」
「それ以上は許しませんよ?
姫は私が幸せにすると、共に永遠を歩むと、心に決めているのですから。」
・・・迎えに行くと、約束したから。美しい私のかぐや姫に。
「どうやって射止めたのです、あの純粋な姫を。」
「・・・そうですね、内緒です。」
「問題は山積みですよ、戦いはまだ始まったばかりなのですから。」
そうだ・・・あの柔らかい微笑を、守らなければ。
私が、守らなければ。
「宮、私は必ず、姫を守る。どんな痛みからも」
「お手並み拝見といきましょう、ね?」






「東の市はいつもにぎやかねぇ。ホラ、奈津見てっ!」
私は指をさした。
指の先には、絵巻物やお菓子など、初めて見るものがたくさんあった。
「見ておりますよ、姫様はお邸の外ではのびのびしていらっしゃいますねぇ。」
私は外出するのが好きで、今日も奈津と一緒に東の市に顔を出した。
「だって、珍しい物がいっぱいあるんだもの!」
「茜様と葵様は、姫様をご覧になって『相変わらずね』と仰ったでしょう?」
「相変わらずで安心したって言ってたわ。姉様達も、相変わらず綺麗だったな・・・」

ガクンッ…

「きゃぁっ」
「・・・いたた。」
私の車は突然大きく揺れた。私は頭を打ち、奈津も小さく悲鳴を上げた。
「姫君、お怪我はございませんか?!」
水干姿の牛飼い童・一清が、私を心配して声をかけた。
「ええ、私は平気よ。」
「平気なものですか、恐れ多くも姫君のおわす牛車がっ・・・」
「奈津、いいの!一清、何があったの?」
「何やら役人と子供がもめているようで・・・諫めて参りましょうか。」
役人と子供?・・・まったく、子供相手に大人気ない役人もいるものね。
「いいわ、私が行く。」
「姫様っ、だめですよ!!あっ、お待ちく・・・」
慌てふためく奈津を尻目に、薄色の衣を翻して、私は胡蝶のように車から飛び降りた。
擦れた怒鳴り声がここまで響いてる・・・品のない下級役人みたいね。
「ごめんなさいっ・・・」
「この野郎っ、謝ってすむものか!!」

パシッ…!!

振り上げた男の手を、私は腕で止めた。
「おやめください、この幼子が何をしたというのですか?」
女の子は震えて立ちすくみ、男は『女の分際で何だ』と言わんばかりのギョッとした目で私を見た。
「この小娘の投げた泥が、私の狩衣を汚したのだ。これでは出仕できぬ!!」
「物の分別も分からぬ子供ではありませんか、もうお許しください。」
「ならぬ。退いておれ、雛つ女!!」
ひ、雛つ女で悪かったわねっ!
少し泥が付いたくらいで、些細なことを根に持っているあなたはどうなのよ?!
「・・・私は三条殿に縁の者。ここはもうお引取りくださいませ!!」
「さ、三条殿?!ご無礼をっ・・・失礼致します!!」
さっきまでの威厳もなく謙り、役人はいそいそと立ち去った。
名前出すのは嫌い。
だって、偉いのは私じゃなくて父様なんだもの。親の庇護の元なんて嫌じゃない?
でも、私には何の力もないから・・・

「あ、ありがとうございます。」
目をパチクリさせた振り分け髪の女の子が、小刻みに震えながらお礼を言った。
礼儀の正しいいい子だ。
「もう大丈夫ね・・・あっ、怪我してるじゃない!!」
諍いの時に転んだのか、少女の足からは真っ赤な血が流れていて、いかにも痛そうだった。
私は髪を結っていた絹を、少女の痩せた足に結んであげた。
紫がかった染料の絹に血が少し滲んだけど、このくらいならじきに血も止まる。
「お家に帰ってから、ちゃんと手当てしてね。」
「雪姫様、下々の者とそのように・・・よろしいのですか?」
一清は怪訝そうに尋ねた。
「そんなの関係ないわ。これからは泥遊びも気をつけなきゃだめよ?」
「はい、あのっ・・・このお花、お姫さまにあげます。」
・・・桃色の小さな可愛い花。
差し出された少女の手には、この花を摘むときに切ったものだろう切り傷が、所々にあった。
「今まで見たどんな花よりも綺麗だわ。大切にする・・・どうもありがとうっ!」
私も少女も笑った。小さな出会いがこんなに嬉しい。
少女が笑顔で手を振り、私を見送ってくれた。
心無い人達に諭してあげたい。
『私は知ってるわ。人っていうのはこんなにも美しい生き物なのよ』って。
今の世は、貴族ばかりが重んじられてる。
上に立つ人は・・・つまり帝や東宮様は、こんな温かい人たちのこともちゃんと考えてほしいな。

「うっひゃぁ・・・オラ、夢でも見てるみてぇだ。」
「あんな姫君見たの初めてだよ。他の姫君とは全然違う優しいお方だ。」
「聞いたことあるよ、ありゃ『三条の内大臣様の雪姫』さ。あんな方は心も雪みたいに綺麗に違いねぇ。」
「千夏、大丈夫だったの?!」
「おかぁちゃん、とぉーっても綺麗なお姫さまが助けてくれたのっ!これも結んでくだすったの♪」
「お前が無事でよかった。
そういう人が中宮様や、皇后様になられたら・・・皆が幸せになれるだろうねぇ。」





小さな姫君には、人の心を動かす国母の器が備わっておりました。
都の噂の的となり、成長するにつれてますますお美しい女人になられた姫君。
衆に秀でたこの姫君は、名のある公卿・公達からの求婚を一身に受け、他に類を見ぬほど時めいておられました。
三条の大臣はこれに涙し、喜んでおりました。
―雪姫、御歳十五歳でございました。


「姫様、衣にどんな香を焚き染めましょうか?」
脇息にもたれて項垂れる私に、奈津は無理に明るく言う。
「・・・奈津、門の辺りが騒がしいみたいだけど。」
「はぁ、大臣がお帰りになったようですわ。」
心なしか、奈津の表情も淀んでいる。
「父様が来たら『雪は持病の瘧で臥せっております』って言って、追い返してくれないかなぁ・・・?」
「姫様ったら・・・瘧など患っていらっしゃらないでしょうに。」
「お願いっ、奈津。」
原因は、もうすぐここにやって来る。
私と奈津は、そろって大きく息を吐いた。
「奈津にはお気持ちがよく分かりますよ。仰る通りにしますわ。」
「さっすが、奈津。父様ってば、前にも増して結婚押し付けてくるんだもん・・・疲れちゃったよ。」
「正直申しますと・・・奈津も大臣にはウンザリしておりますの。姫様には月の君様がいらっしゃいますしねぇ。」
父様の横暴にはまいってる。
「ですが、一つお約束なさいませ?
大臣や北の方様に、月の君様のことを決して仰らないと。
月の君様のご身分も、名前さえも詳細は不明なのでしょう?普通の親ならば、さぞご心配でしょう。」
奈津はキリッと眉を吊上げた。
雇い親の面目を保ち、配慮するあたり、奈津はやはり出来た女房なのだ。
「うん、分かってる。父様失神しちゃうもんね。」
「ですが、奈津は姫様の味方です。姫様を信じておりますし、姫様の本当の幸せを祈っておりますからねっ!」
本当の幸せ・・・そんなの、何処にあるのかな。
「ありがとうっ、奈津。私も奈津を信じてるよ。」
行き先なんか、見失ってる。
月の君は私の光だから・・・彼がいない夜には、惑うしかない。
だけど・・・信じることしか、私には出来ないよ。




「雪や、もそっと近くに寄りなさい。」
案の定、父様は私の部屋に乗り込んできた。
どうしてだろう・・・今日は奇妙なほど上機嫌だわ。
「・・・はぁ。」
ん?!
御簾の向こう側に、人影が二つ見える。
一つは父様のものだ。もう一つは一体・・・誰?
「こちらは式部卿宮様の第三子、頭の中将在原輝由殿だよ。」
とうのちゅうじょう・・・言わば、いいトコの貴族の若君ね。
「お初にお目もじ仕ります、雪姫。」
「・・・初めまして、頭の中将さま。」
なんなの、この男は。こっちに向かってヘラヘラと。
正直言って好みじゃないのよね、こういう人。ちっとも真剣みが感じられないし・・・。
口上が優美なだけで、気品も何もない。
「今宵は望月、美しいですよ。内大臣様もいらっしゃることですし、姫もこっちで共に月をご覧になっては・・・。」
「お誘いは大変嬉しゅうございます。ですが、私、体調が優れませんの。」
「それは残念。それではご一緒に楽でも奏でてみてはいかがですか?」
「ご遠慮いたしますわ、中将様は楽に優れたお方と聞き及んでおります。私などではとても・・・こほっ・・・」
私はわざと咳き込んで聞かせた。
それに気づいた奈津は、ぺこりと頭を下げた。
「大臣、姫様は大変お疲れのご様子です。今宵はそろそろご勘弁くださいませ。」
すかさず助け舟を出した奈津は、にっこり微笑んだ。
でも、父様も中将も恨めしそうに私の方を見てる。
・・・嫌な予感がするのよね。






木の香りが漂う床が、小さく軋んだ。
サラ

「雪姫様、でいらっしゃいますね?」
・・・ちゅっ、中将?!
どうしてこんな所にっ・・・まだ帰っていなかったの。
「これは美しい。ぜひもう一度お目にかかりたいと思っておりましたよ。」
「だ、だからと言って乱暴なっ・・・出て行ってください!!」
「冷たいことを仰いますな。ここで巡り会えましたのも何かの縁でございましょう?」
中将のたくましいすぎる腕は、私の手首を痛いほどきつく捉えた。
「なっ・・・何をなさいます?!お放しくださいっ!!」
「姫、私の元に来てくださいませんか?大切に致します故に・・・あなたに焦がれて、夜も満足に眠れません。」
私は腕を引っ張られて、中将に抱きすくめられた。
真面目な顔して求婚したって、こんな乱暴な・・・
「冗談は程ほどになさいませ。もう、本当に怒りますよっ・・・きゃぁっ!!」
暴れる私の力も、中将の力に及ぶはずがなく、中将は微動だにしなかった。
横抱きにされて、涙がこぼれた。
薄っすら朱を帯びた上弦の月が、私同様に横になった。
直衣に残る香りも、私を抱くこの腕も、投げ掛けられる求婚の言葉も、何もかもが違う。
「大切にします、私のものにおなりなさい。」
「放してっ・・・嫌、誰かっ・・・!!」
見える景色が全て横向きになって、体が動かない。
こ、怖いっ・・・!!
首筋を温かいものが這った。中将の吐息が掛かる。
「やだぁっ、助けて・・・月の君っ・・・!!」
私がそう叫んだ瞬間だった。


「姫君をお放しなさい!!」
つ、月の君っ!!
「なんだ、無粋な輩め・・・見ない顔だな。水干姿の所を見ると、ただの雑色か。黙っていろ!」
中将はすごい瞳で月の君を睨み、私を抱く腕にも力が込められた。
「痛っ・・・」
小さく毀れた声を聞いて、月の君の眼光が鋭くなった。
「私と姫は、二世を誓った仲。引き下がるわけにはまいりません。」
「なにを生意気な!!お・・・あ、あ、なたは」
声高だった中将が、何かに恐れて急にしどろもどろしだした。何があったの・・・?
「も、もしかして。な、何故こちらに・・・」
途端に青ざめて、整然と並んだ歯がカチカチと音を立てている。
「即刻ここを去りなさい。
決して他言せぬよう、さすれば公に咎めはしない。己の所業を恥じて、しばし謹慎するように。いいな?」
口調は柔らかいのに、今日は随分と立派だわ。少し、前に会った時と違う?
「は・・・しっ・・・し、失礼いたしましたっ・・・!!」
月の君に、驚いたのかしら。中将は会釈して逃げるように去っていく。
「姫、遅くなって申し訳ありません。ご無事でしたか?!」
「・・・ふふふ、やっぱり変わってない。」
「?」
私を心配する瞳は、元のままだわ。
「何でもないわ。私は平気よ、ちょっと怖かったけど・・・月の君が助けてくれたものっ!」
この瞳が見れただけで、私はいいの。
「左様でございますか、間に合ってよかった・・・痣が!!」
言われて月明かりに照らすと、手首が指の形に腫れていた。
「中将に捉まれた時かしら。あ、でも痛くないのよ。」
「綺麗な手に痕が残らぬよう、しっかり冷やしてくださいね。」
私の手に触れる月の君の手が少し震えてる。心配、してくれたのね。

「どうして今日来てくれたの?」
「今宵は満月ですから、姫のご尊顔が浮かんでなりませんでした。たまにしかこちらへ参れぬこと、お許しください。」
「少し寂しいけど・・・こうして来てくれたんだからいいの。ねぇ、月の君は・・・どんな人?」
「どういう男に見えますか?」
月の君は微笑んで質問を返す。
「中将がペコペコしちゃうくらいだから、すごく偉い人よねぇ・・・」
「そうですね、あなたの父君と同じような身分ですよ。」
「すごいじゃないっ・・・あ、そう言えば、中務卿宮様も幼なじみだって言ってたね。
あ、この間ねっ、姉様に呼ばれして参内したのよ。そしたら、宮様が私を抱えて庭に連れて行ってくれたの。」
まったく・・・宮も大胆なことをなさることだ。
姫は私がお迎えするのだと、何度も念を押しておいたのに。
「可愛らしい姫が、あんまり退屈そうにしていたからでしょうね。」
「・・・宮様といい、東宮様といい、月の君といい、どうして分かっちゃうのかな。」
「姫は感情を素直に表に出されるからね。」
「ふーん、御所の雰囲気は苦手。
でもね、中宮様や帝はいい方で好きっ!姉様のいる後宮がいい所で安心した。ただねぇ・・・」
「ただ?」
「東宮様は私のこと嫌いかも・・・だって、ずっと扇で顔隠して、一言も話してくれなかったもの。
私、人に恨まれることをした覚えはないんだけどな・・・。」
「嫌いなはずありませんよ。姫がとても清らかなので、顔をお合わせになるのが恥ずかしかったのでしょう。」
「うん、ありがとう。あ、帝がね『東宮のお嫁に来なさい』って仰ったのよ。」
「そうか・・・姫は東宮妃になってしまうのですか。では、私は潔く身を・・・」
「引かないでっ・・・ちょっとだけヤキモチ焼いてくれてもいいのに。」
「冗談ですよ。『姫は私が娶る』と申し上げたでしょう。私がその約束を破るとでも?」
「それはそうなんだけど・・・」

ぎゅ・・・
「姫が他の男に嫁ぐようなことがあれば、全身全霊をかけて奪い返しましょう。
姫のことを誰よりも大切に思っています。私を信じて、もうしばしご辛抱くださいね。」
「・・・はいっ、ありがとう。」

「姫、眠ったのですか?・・・幼子のような姫だ。」

パサ…


「月の君様、お帰りでございますか?」
「・・・あなたは?」
「雪姫様の乳母の娘、奈津と申します。お初にお目にかかります。
お話は姫様から聞き及んでおりますので、どうぞ心安く・・・月の君様、一つお尋ねしてよろしくて?」
「私の返答できる限りでよろしければ、何なりと。」
「お名前や身分は問いたい所ではございません、私こそ数ならぬ身でございますから。
私がお聞きしたいのは・・・あなたのお気持ちなのですわ。」
「気持ち、と申しますと?」
「私は姫様を妹のように思っておりますから、姫様には・・・誰よりも幸せになって頂きたいのですわ。」
「・・・奈津殿、私は身分柄、今すぐ姫を娶ることは出来ない。
だが、約束しましょう。
姫は私が娶り、幸せにする。あなたは私を信じて待つように、いいですね?
姫は心清らかなお方故に、私も姫の身の上を案ずる。私が出来ぬ分、あなたが常に側に在るように。」
「・・・お心、お察し致しますわ。あなた様の名代として、私が常に控えていましょう。
ですが、姫様はあなたをいつも待っています。尽力し、どうぞお早くお迎えなさいませ?」
「必ず。さて、姫をお運びするから、寝所に案内してください。」
「はい、ありがとうございます。」

「あれ・・・あ、さ?」
御帳台に
「おはようございます、よくお休みでしたね。」
「おはよう、奈津。昨日月の君が来てて、それで。」
これ、月の君の衣。いい香り。
「奈津もお会いしましたわ。ご立派なお方でしたわねぇ・・・お若くていらっしゃるのに。」
「だめっ、月の君は私の背の君なんだから。」
「重々承知していますから、横取りなどするものですか。」


「姫様、お待ちかねの物が届いておりますよ。」
「本当にっ?」
「クスクス、本当に嬉しそうなお顔ですわ。こちらですよ。」

『姫、今度何か贈り物をしましょう。何がいいですか?』
『・・・月の君が来てくれれば何にもいらないわ。』
『物欲に乏しくていらっしゃる。少しくらい我がままになっても、罰など当たりませんよ。』
『うーん・・・じゃぁね、一つだけほしい物があるのっ!』
『何なりと仰ってください?』
『笑わないでね。月の君からのね、お文がほしい・・・ダメ?』
『そんな物でよろしいのですか?もっと別の』
『お文がいいのっ!』
『はい・・・必ずお送りしましょう、待っていてください。』

「月の君は、約束は破らないの。」
この香袋・・・月の君の合わせ薫物。
いい香り。とてもしっかりしていて、月の君の人格が現れてる。
わぁ、綺麗なご料紙。焚き染められた月の君の香り・・・嬉しいな。

《》


「まぁ、流麗なお手蹟。
姫様、私思いましたの。月の君様は・・・かなり良いお家の若君ではないかと。」
「奈津も思う?!」
「はい・・・それが、その文をお預かりした時に」

『女房殿。少々外聞をはばかるお話がある・・・奈津と言う女房を呼んでもらえるだろうか。』
『奈津は私ですか?』
『そうか、それは話が早い。私はある御方の使者として、文を届けに参ったのだ。』
『まぁっ、では雪姫様に?』
『そうだ、これへ。それからこれもお渡しするように。』
『はい。お文と香袋、確かにお預かり致しますわ・・・あら、あなたは確か、権中納言様・・・?』
『・・・私の顔を見知っていたか。女房殿、今日のことは姫君以外には内密に、いいね?』
『は、はいっ、承知いたしました。』
『よし、いい返事だ。名は明かせぬが、その御方からの伝言をお預かりしている。
すぐにはお会いできないので、私の香りだけ先にお届けいたします・・・と。では、失礼するよ。』
『お勤めご苦労様でした。』

「確かに、大臣のお客として以前邸にいらしていた、権中納言様でしたわ。」
「そう・・・前ね、中将も月の君にペコペコしてたの。聞いたら父様と同じような身分なんだって。」
「お若いのに、大臣クラスの出世とは・・・素晴らしい実績ですわね。
以前お会いした折にも、身なりや仕草などが整っていると思いましたの。きっと大貴族の若君ですわ。」
「誰なんだろうね、月の君は。」

「おっ、おやめください!!」
「こうでもしなきゃ何も先には進まないわ、ブツブツ言わずに仕度を手伝って。」
「なりません、奈津は命をかけてお止めいたしますからね!!」
「奈津、お願いよ。無茶はしないわ。」
「・・・言い出したら聞かないのだから・・・まったく、仮にも大貴族の姫君が。」
「悪いわね、ちょっと覗いたら戻ってくるから。」
「牛飼い童に身をやつして内裏に行くなんて・・・奈津は大臣に申し訳が立ちませんわ。」

「ん・・・?見慣れぬ顔だが。」
「あっ、のですね、いつもの者が臥せっておりまして・・・私が変わりに。」
「そうか、では内裏にやってくれ。」
「はいっ!」
心臓が止まるわ、父様にばれたらなんて言われるか。



緊張する。
でも、平気よね。
直衣は着てるし、咎められたら姉様の殿上童だと言えばなんとかなるわ。
浮気調査みたいで嫌だけど、月の君のことをもっと知りたいんだもの。
「こら、そこの童!!」
ビクッ
「はっ・・・はい、何でございましょう。」
「童がこのようなところをウロウロして、一体何をしている。」
「・・・れ、麗景殿さまの、御使いで・・・あの。」

「権大輔、何を騒いでいる?」
あーっ!!
こ、困ったな。ど、どうしようっ・・・事態は最悪だわ。
「こっ、これは宮様。見慣れぬ童がうろついておりましたので・・・私は注意をですね。」
「そんなに怒鳴ることもあるまい、あなたはもう下がっていい。」
「はい、御前失礼します。」
なんとかばれずに済まないかな・・・白を切りとおすしかないじゃないっ!
「主人に急ぎ伝えることがございますので、これにて。」


「そうか、お行き・・・ん?・・・まっ、待ちなさい!!」
に、逃げなきゃ!!

ダッ・・・


ガシッ
「放してっ、嫌」
「こ、こら、暴れるのはおよしなさいっ・・・」

ぎゅっ

「きゃぁっ・・・なっ、何か私に御用ですか?!」
白を切るしかない!!

「あなたは雪姫でしょう?!何故そのような・・・なんと大それたことをっ」
「ち、違います!!どうぞお手を・・・」
「嘘をおっしゃい、私が見間違えるとでも?!」
「宮様ぁ・・・黙っててください!!父様にも、姉様にも、月の君にもっ・・・後生ですから!!」
「・・・とにかくこちらへいらっしゃい。」

「さて、ここには私しかいません。」
「・・・宮様、お願い、今度だけ見逃してくれないですか?」
「包み隠さずすべてお話なさい!」
「うぅ、はい・・・月の君には黙ってて、絶対よ?」

「はぁ・・・それで殿上童の真似事などしたのですか。」
「月の君は口八丁、聞いても逃げちゃうんだもの。仕方ないわ。」
「姫は彼が信じられませんか?身分が確かでなければ、想うことさえもでき」
「違う!!違うわ、そんな訳ない。
不安なだけよ、月の君ははぐらかして何も教えてはくれないから・・・少し不安なの。
好きなのに何も知らないなんて、なんだか寂しいんだもの。」
「愚問でしたね。姫に限って、人を身分で判断するはずがないのに。
これだけはご理解なさい・・・いえ、あなたは理解しなくてはならない。月の君は誰よりも辛いのです。」
「辛い?私よりも?」
「そう、彼は重大な責務を負っています。
易々と自分のことを話し、妻を迎えることのできない、難しい境地に立っているのですよ。
いくら好きでも、叶わぬことはあります。でも、彼はあなたをお迎えするために、並々ならぬ努力をしています。
あなたは彼を信じて待つことですよ。」
「・・・うん、分かった。
でも、月の君を側で支えたいのに・・・私は蚊帳の外。励ますことさえ出来ないなんて、なんだか胸が痛いわ。」
「ではね、姫。ヒントだけあげましょう。
月の君の馨りに覚えがありませんか?そうですね、例えば・・・この内裏で。」
「内裏って、この前参内した時に・・・どこかで会ったのね?!もっと注意していればよかった、もうっ・・・」
「姫、あなたは普通にしていればよいのですよ。
あなたは隣にいるだけで可愛いのです。隣に座ってくれるだけで、彼は救われていますよ。
さて、帰りましょう。邸までお送りしますからね。」
「はいっ!」




「雪、雪やッッ!!雪はおるかっ?!」
「父様、私はここよ。何、母様まで・・・」
「ゆっ、雪。お、おま、お前、父は嬉しいぞ、やっと親孝行できるのだ。」
「親孝行?」
「落ち着いて聞きなさい。北の方も、座りなさい。」
「殿。お帰りになるや否や、何をそんなに喜んでおられるのですか。」
「・・・雪の東宮入内が決まった。私一人を召して内々に仰せられたのだ。」

「・・・え、えぇぇぇえっ?!」
入内?!
どうして急に、私が・・・
「と、殿、何を仰います!!あまりに急ではございませんか。」
「恐れ多くも東宮様がぜひにと仰ったのだ。」
「私は入内なんてしないっ、どうして勝手に決めちゃうのよ!!」
「雪や。帝に続き、東宮様にまで娘を望まれた家として、我が内大臣家は未来永劫安泰なのだっ!!」
「家が安泰なら、娘の幸せなんて考えないの!?」
「今東宮様は、若かりし時の帝によく似て賢帝の器。嫁げばお前も幸せになれる確信がある。
私は東宮と言う御名につられて、入内を勧めているわけではない!!」
「私には思う殿方がいるっ・・・お話はなしよ!!」
「どこの公達だ?!名前は、身分は、申してみよ!!」
「それは・・・今はまだ、素性は・・・。」
「言えぬのだろう?!とにかく、私は内大臣としてではなく、親として入内を承諾した。
一月もすれば都中に公表される。これ以上は問答無用だ。」
「ちょっ・・・父様、横暴よ!!
絶対嫌だからっ、入内なんてしないからね!!父様の分からず屋ッ!!」

「殿、私・・・入内には賛成いたしかねますわ。」
「北の方まで、何故だ?」
「入内しても、雪が東宮様を愛すことはないと思いますの。雪には相思相愛の御方がいらっしゃいますもの。」
「どこの男だか知っておるのか?!」
「いいえ、でも・・・私は母親ですもの、顔を見れば判りますわ。雪も東宮様もきっと不幸になるわ。」
「東宮様は、心から雪を待ち望んでおられる。決して好き心などではない。
こう言うのは何だが、私は姉妹の中で末の雪が一番可愛い。誰に嫁がせても、不安なのだ。」
「茜や葵は、何の手も掛かりませんでしたものね。雪は・・・純粋だから心配もありますわ。」
「雪が好いた男は、素性を明かしていないらしい。父として、雪には、全てにおいて一番良い相手をと考えている。
お優しいあの方なら、雪をきっと誰よりも慈しんでくださる。
現に東宮様には、女御はいらっしゃらない。聞くと、雪のために迎えずにいたと言うのだ。
近くに一番の理解者である茜もいる。末の姫が嫁ぐには、もったいないほどの場所だと考えているよ。どうだろう?」
「内裏は雪には居づらいかと存じますが・・・殿がそこまでお考えなら、もう何も言いますまい。
東宮様は、雪を預けるにたるお方とお見受けいたします。殿にお従い致しますわ。」



「姫様、どうなさいますか・・・?」
好きだから、頑張ろうって思うのに・・・私と月の君の間に、見えない力が働いて、私たちを引き離そうとする。
私の恋心を、信じる気持ちを消さないでっ・・・月の君を思っていたいだけなの!!
月の君のお迎えを、ずっと待っている自分でありたいの!!
「・・・何も知らなくても、たとえ身分の低い公達でもいいの・・・月の君が好きだよっ・・・」
なのに、急に入内なんて。
「東宮様のご威光には、大臣も逆らえなかったのですわ。」
東宮様はきっと私を愛してくれる。そうでなければ、いくら父様だって入内を承諾したりはしない。
断れないのも分かってるし、得体が知れない男が相手なんて納得できないのも分かる。
分かってるからもどかしいのよ!!
月の君が優しいことを、私はよく知ってるわ。なのに、何も言えないなんて・・・

「奈津、皆にばれないように旅支度をして。」
「何をなさるおつもりですか?!」
「邸を出るわ。ここにいたら、無理やり入内させられちゃうもの。」
そう、私は月の君を信じると決めた。
心に誓った想いだから、汚すことなく生きていきたい。
たとえどんな結果になっても・・・私は月の君を愛してる。
自分の気持ちには、嘘はつきたくないわ。私は誰の言うなりにもならない。
「車じゃすぐに足が着くから、ばれないように徒歩でね。宇治にある縁の尼寺に行きます。」
「尼寺で何を・・・まさか?!」
「もしもの時は髪を落とすわ。尼になって、一生月の君の幸せをお祈りするつもりよ。」
「後宮に上がって、女の栄華を極められればよろしいじゃありませんかっ!?」
「それも考えなかったわけじゃないの。父様のためにも、入内したほうがいいのかなって。
でも、入内しても、私は月の君のことを想うって確信があるわ。
そしたら私も、東宮様も、月の君も不幸になっちゃう。そんなのダメだよ。」
初めて貫きたいと思った恋だから・・・諦めるなんて出来ない。
「奈津にまで尼になれとは言わないわ。奈津は綺麗だし、結婚だってしてほしいもの。」
「・・・いいえ、奈津はどこまでも姫様のお供をいたしますわ。
こっそり身支度を整えますわ。そして、門番には少々お酒を振舞いましょう。朝まで目を覚まさぬように。」
「私の気持ち分かってくれてありがとうっ、奈津。」
「ですが、出立は夜明け前になさいませ。
夜盗や怨霊など、女の身に夜は危のうございます。明日の朝、朝霧の間を縫って出かけましょう。」
月の君様、お願いです。
大臣を止める方法は見つかりません。
かといって、俗世を捨ててしまっては、もう二人に未来はありません。
どうか・・・どうか、姫様を止めてください。そして、娶って連れて行って!!

「権中納言様にお取次ぎを!!」
「身分卑しい者を易々と通すわけにはいかん。」
「私は三条の大臣の縁の者、どうぞ『奈津がお目通り願っている』とお伝えください!!」
「内大臣家の女房殿でしたか・・・少々お待ちを。」
奈津には、何も打つ手がございません。
止められるのはあなただけ、月の君様お一人なのですよ。

「権中納言様っ、夜分申し訳ありません。」
「奈津、そんなことは良い。一体どうしたのだ?」
「進退窮まりまして・・・こうして参上した所存にございます。
お願いです、月の君様に急ぎ伝えることがあるのです!!どうぞお引き合わせください。」
「・・・何があったか分からないが、それは難しい。」
「では、お名前をお聞かせください。私が参ります故!!」
「・・・事はすべて内密に進んでいる。御名を口に出すことは許されていない。」
「では、誰がっ・・・誰が姫様を止められるのっ?!お願い・・・誰でもいいから姫様を助けてっ・・・」
私に出来るならする。
でも、痛々しくて・・・月の君様のようにはとても、上手に諫められない。
あんなに若くて美しい姫が俗世を捨ててしまうなんて。
「奈津、文ならば私が届けよう。ここでお書き。硯箱を・・・」
「届けてくださいますか?!出来る限り早くっ、月の君様しか・・・もう頼れません!!」

《月の君様、ご無礼を承知でお伝え申し上げます。
主人・雪姫は入内を厭い、近日中に出家することを決めました。
東宮様のご威光に、内大臣は異論を唱えることをなさいませんでした。入内は止められません。
明朝、宇治の尼寺に赴く所存にございます。
主人を止められるのは、あなた様お一人にございます。
どうか、お早く姫様をお止めくださいますようお願い申し上げます。
姫様はあなたをお待ちしています、手の届くうちにお連れください。》

「文は必ず届ける、返事は邸でお待ち。お前は気を確かに持たなければいけないよ、分かったね?」
「・・・はい。」
私にできることは、これだけ。
月の君様のお心を信じて、お待ちするしかない。


「奈津、行こう。空が白んできたわ。」
「・・・はい、では。」
暁の空が、誰かの心を表したかのように翳っていた。
間に合わなかった。
月の君様、あなた様のお心がお変わりないことは、痛いほど分かります。
だからこそ、奈津は二人の恋が可哀相でなりません。
どうして仏様は、二人に幸ある未来をお与えにならなかったのでしょう。
奈津は仏様を恨んでなりません。どうか、愛し合う二人にお慈悲をお与えください。

「初めての家出にしては上手くいったわねっ!」
「邸にいらっしゃるより生き生きして見えますわ、姫様。」
「だって、楽しまなきゃもったいないじゃない。ホラ、奈津も足を浸してみなさいよ。」
尼になったら、もうこんなことは出来ないもん。
「奈津は遠慮いたしますわ。姫様もお風邪を召されますよ、程ほどになさいませ?」
「はぁい、さて・・・先を急ごうか。そろそろ父様が気付いて、追っ手がかかる頃だわ。」
「都に名残はございませんか?」
「・・・入内しなくてすむなら、都を捨てても寂しくないわ。」
唯一待ち続けた人は、きっと来ないから。
月の君、ごめんなさい。
すぐにでもあなたの側に行きたいわ。
生涯あなたを支え、命が朽ちる時まで一緒に生きていきたい。
だけど、それはもう叶わないわ。
すべてを失くしてもね・・・あなたとのそんな夢を見ながら、私はずっと生きていける。
だから、あなたも・・・私を忘れないで。それだけ、あなたに伝えたい。

「宇治って徒歩だと遠いのね。」
「無闇に歩き回るのは危険ですわ、今宵はこの空き家で休みましょう。すぐに乾飯を用意いたしますわね。」
「ありがとね、お腹ペコペコだったのっ!」
「朝からずっと歩き通しでしたものね、コホッ・・・換気いたしましょう、空気が悪いですわ。」
「私がやるからいいよ、大急ぎで窓開けるねっ!」
ガタンッ
「うわぁ・・・すごい埃っ、ずいぶん誰も住んでなかったのね。」
・・・あ、今夜は満月だ。
歩いてる間は下ばかり見てたから気付かなかった。
そう言えば、月の君と初めて会ったのもこんな晩だった。眩しいくらいの大きな月を、月の君が背中に背負ってた。
「奈津、水の香りがする。」
「この辺りには小川が数多く流れているようです。この廃屋の側にもあるのかもしれませんわね。」
「ちょっと行ってこようかな、奈津は待ってて!」
「あっ・・・姫様?!」


「わぁ・・・水が綺麗。」
誰も、来ないよね?
ピチャンッ
「うぅっ、冷たいっ・・・」
さよなら、私の恋心。
私も、私の心も、全部あなたのもの。
もう二度と逢うことはないでしょう。
でもね、でも違う。
本当は・・・尼になんてなりたくない。
入内だって、出家だって、私が望んだことじゃない。
どうして・・・どうして何もうまくいかないのかな。
もう戻れないのに、こんなに悲しい。
私と恋心とのたった一つの約束。
朽ち果てた二人を繋ぐ、たった1筋の光・・・もう差しはしない。
「あぁあっ!!・・・だめだよ、泣かないでっ・・・」
寂しいよなんて泣かないで。
・・・水に溶けてしまいたい。
あなたがいないなんて、寂しくて生きていけない。


「・・・姫ッッ!!」

―え?

「そこにおわすのは、雪姫ですかッ?!」
「つ・・・きのき・・・み?」

バシャバシャッ
ぎゅ・・・

「雪姫、あぁ、ご無事でっ・・・何故入水などなさったのです?!」
「入水って誰が?!
入水なんてしてないわ、ただの水浴びしてるのよ・・・つ・・・きの君、来てくれたの?」
「ええ、ええ、当たり前でしょうッ?!
姫が宇治の尼寺へ行くと聞いて、三条に早馬を出しましたが、姫はもう邸にはいらっしゃらなかった。
もう髪を下ろしてしまったのだろうかと不安だった、無事で良かった。」
月の君、震えてる?
「・・・っあ・・・す、すいませんっ!!」
「え・・・きゃあぁぁあッ!!」
バッシャーンッ

月の君は、耳まで真っ赤にして顔を伏せている。
ああぁっ・・・わ、私ってばなんてことを!
水浴びしてたの忘れて、裸で抱きしめられるなんてっ・・・外聞が悪すぎる!!
「・・・私、結婚するの。父様に無理やり入内させられるのよ。知っているから来てくれたんでしょう?」
「だからと言って、こんな無茶を」
「ねぇっ・・・どうして何も言ってくれないの、私が東宮様と結婚してもいいのっ?!
私、結婚なんてしたくないっ・・・約束したでしょう、月の君。今すぐ私を娶って連れて行って!!」
「姫・・・」
「月の君が好きなの、他の誰でもないわ。身分も家も何も要らないから、お願いっ、私をさらって・・・」
「姫、そんなに私のことを・・・嬉しゅうございます。
でもね、姫、お帰りなさい。あなたは、都に戻らなくてはなりません。出家などしてはいけない。」
「だって、都にいたらっ」
「私も姫をお迎えしたいのです。今すぐ姫を抱いて連れて帰りたい。」
「だったらっ・・・!!」
「でも、それは出来ない。」
「・・・私のことが、嫌いになったの。だから、私に入内させたいの?」
「違うッ、断じてそんなことはありません!!
姫、私のために何もかも捨てるなどと言わないでください。あなたの輝く未来を、私は見たい。
内裏に上がり、日々美しく咲いていくあなたを私は見たい。」
「月の君は・・・私が東宮様と結婚しても・・・平気なの。だったら死ぬわ、本懐を遂げられないなら生きてたって何もないもの!!」
月の君を忘れて生きるなんて出来ない。月の君なしでは、幸せになんてなれない。
「どんな風に生きても、命は命。
あなたが瞳を閉じなければ、新しいことも見えましょう。
必ず幸せにします。今は・・・どうぞ後宮に上がってください。私のために、今はただ私を信じて。」
「・・・入内することが、月の君のためになるの?」
「今は耐えてほしいと思います。
姫、愛しています。私が信用できないのなら、何度でも誓いましょう。
あなたのためなら何をかけても惜しくはない。どうか、私を信じて入内してください。」
「絶対、私を捨てない・・・?」
「こんなに愛しいあなたを、どうしたら捨てられましょう?」
「私が寂しくなったら、すぐ会いに来てくれる?」
「必ず、お約束しましょう。」
「絶対っ・・・絶対、私を忘れないって約束してっ・・・幸せにするって・・・」
「もちろんですとも。
辛い時は空を見上げてください。―月は、いつも側にある。」

月は・・・いつも側にある。

私を形成するのは、あなたです。
空を降る星のように、同じ空に輝く星のように、私も月の側にいたいと思うわ。
いつまでも、いつまでも。

かくして、幼い姫君は旅立ちを決意したのでございました。
愛しい想いをただただ込めて・・・

「寝てしまったね、ずいぶん疲れていたようだ。」
「ここまでずっと歩いて参りましたから。」
「都まではまだ大分かかります。あなたもお疲れでしょう、休んで構いませんよ。」
「いいえ、ご心配には及びませんわ。」
「・・・あなたにはお礼を言わねばなりませんね。」
「お礼・・・で、ございますか?」
「そう、あなたの判断は賢明でした。
おかげで月の君は姫を失わずにすんだのですから。あなたには御仏のご加護があるに違いない。」
「まあ、嬉しゅうございます。私は自分のすべきことをしたまでですのに。
ですが、宮様・・・差し出がましいこととは存じておりますが、一つお伺いしても宜しいですか?」
「なんなりと?」
「月の君様が姫様を説得なさったそうですが・・・そんなことをしては、二人はもっと遠くなるはずでしょう。
姫様の出家を止めるためと申しましても、入内してからでは遅いのでは?
東宮妃に手を出して無事ですむはずがございませんわ。第一、二人の道ならぬ恋を誰も許しはしないでしょう。
源氏物語の例もありますし・・・どういうことか、ご説明頂けますか?」
後宮に入った朧月夜と光源氏は、愛しさのあまり大瀬を重ねる。
やがて帝に露見し、須磨に追われることになる。
女御になった姫様に近づくなら、月の君だって源氏の二の舞になりかねないわ。
「驚いたな、あなたはとても頭がよい。
でも、これで良いのですよ。今は何も言えませんが、何も心配なさらず、気長に待っていらっしゃい。」
「・・・はぁ。」
「おや、涙が・・・どうしたのだろう。」

『姫、私は訳あって姫をお送りすることができません。
中務卿宮殿にあなたをお送りするよう頼んであります。行ってください。』
『・・・ずっと大好きよ、月の君。』
次はいつ会えるの?
明日ならいいのに。月の君、本当は離れたくない。
でも、私、逃げないから。
だから・・・次に会うときは、ずっとずっと抱きしめていて。離さないで。
『・・・んっ、ふ・・・』
『一時でもあなたを手放し、約束を違えることをお許しください。
・・・次にお会いする時は、もっとお美しくおなりでしょうね。
側にいることが出来ぬ我が身を、恨めしく思いますよ。愚かな私には、それが罰なのかもしれません。』
大きく開かれた私の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
『雪姫、今度お会いしたその時は・・・もう二度と離しません。
私の姫、常しえに私の愛は変わりません。もうしばしご辛抱を。さぁ、お帰りなさい。』

「姫様はまだ若干十五歳の少女でございます。
恋しい殿方と引き離されて、平然としていられるわけがありませんわ。私、姫様がお労しくてなりません。」
「・・・あなたは、今東宮には女御がいらっしゃらぬことをご存知ですか?」
「詳しくは存じませんが。
何でも政権を握る左右両大臣が、東宮妃の座を狙い競っておられるそうですね。
主人の大臣は今上の女御様の実夫でございますから、その争いには自ら退いていらっしゃいましたが?」
「そう。ここからの話は他言無用、あなたを信用してお話いたしましょう。
今上は近いうちに譲位をお考えです。」
「譲位っ?!」
「お体が思わしくないご様子で、お心細くもあるようで・・・だからこそ、ただの『東宮妃争い』ではすまないのです。
左大臣家の慶子姫、右大臣家の鈴姫、どちらも素晴らしい姫君ですが、国母の器ではありません。
東宮は、人民を慈しみ思いやる心をお持ちの姫を探しておいででした。そして、それが」
「私の主人なのですね。」
「ご名答。中宮の悪政や、帝が寵姫に溺れ、国を傾けた例は多々あります。
今東宮はまれに見る賢帝の器をお持ちの御方ですから、皆期待を寄せています。
国のためにも失政を行ってほしくありません。
相手が姫ならば、共に理想的な治世を築いていけるでしょう。国の未来は姫の双肩にかかっているのです。」
「確かに姫様には、国母の器がございます。
お言葉ではございますが・・・姫様は限りなく一途で、自由奔放なお方。中宮など務まりますでしょうか?」
「こちらに考えがありますから、後の心配は無用に願います。
話を戻します・・・大臣にも念を押しましたが、姫の入内はあくまで極秘事項として取り扱っています。」
「何故です?」
「姫の入内が両大臣に知れれば、圧力がかかるでしょうから・・・それもかなり陰湿なね。」
「では、入内直前までは、公には知らされぬのですね。」
「そうです、これは私たちの賭けです。均衡が崩れれば、未来は危ういと言うわけです。」
「ですが、それが月の君様と何の関係が・・・?」
「どうしても追求しますか。」
「ええ、お聞きしとうございますわ。
奈津はずっと疑問に思っておりました。何故、不都合にもかかわらず入内を勧められたのか。
今までのことを考慮しましたところ、月の君はもしや・・・それしか考えられませんわ。間違いありませんわね?」
「あなたの推察の鋭さには感服しました。おそらくお考えの通りです。ですが、決して姫には漏らさぬように。」
「いいえ!!姫様の苦痛が和らぎますのなら、私はすぐにでもっ・・・」
「奈津、これは勅命です。帝のご意向に、謹んで従うように。」
「・・・不条理ですわ。お偉方は、相手の気持ちなど汲んでくださらぬのですね!!」
「慎みなさい。彼ら自身の問題に、周囲の人間が口を出すことではない。今しばらく仰せの通りになさい。」
「失言でしたわ、ご無礼をお許しください。」
「・・・ははは、やはりあなたも殊勝な女性だ。」
「あ・・・あなたも、とは?」
「前に姫でも遊んだことがあるのですよ。姫はあなたの姿を見て育ったのだなぁ、と改めて思いました。
いや、奥ゆかしくて実に可愛らしいですよ。」
「お世辞が上手ですこと。流石は宮中一の世渡り上手、その名をほしいままにしていらっしゃる。」
「おや、本当ですよ。信用ありませんか?
とにかく、あなたや姫を傷つけることは、しますまい。
月の君の名代として、あなた方を全力でお守りします。なにせ私は宮中一の世渡り上手ですから、ね?」
「・・・信用します。
ですから、本当に頼みますよ。姫が幸せになるよう、尽力してください。
もしも、そのお言葉を違えた暁には、女修験者になってあなた様を呪いますからね?」



「見て見て、私の薬玉っ!右大弁からの贈り物よ。」
「あら、私の左馬守様からの糸の方が鮮やかよ。」
「あーん、私も早くほしいわぁ。」

「・・・何の話をしてるのっ?」
「姫様はご存じないですか。今日は何の日ですか?」
「何のって・・・あ!今日は端午の節句か。だから、皆は薬玉を抱えてるのね。」
「ご名答ですわ。朝から皆大喜びなんです。」
「キラキラして綺麗ねぇ。皆、可愛いなぁ。」
「何をおっしゃいますか、一番時めいておられるのは姫様でございましょうっ?!なんと言っても、とうぐ」
「・・・ちょっ、伊予さん!!」
「え、私何か・・・姫様、あの?」
「西の対の女房は何も知らないもの、何でもないわ。さぁーて・・・本でも読もうかなっ!」

「姫様、あの・・・」
『大丈夫。あなたを傷つけることは、もうしますまい』
「・・・信じているもの。」
「えっ、なぁに、奈津?」
「いいえ?何でもありませんわ、絵巻物を持ってまいりますわね。」
でもね、奈津。
私ね、今は心穏やかなのよ。
月の君が見たいと言ってくれたんだもの、誰よりも私を誇れる。
誰よりも愛してくれると言ったから、私はそれだけで幸せなのよ。
誰の元に嫁いでも、きっと同じ夢を見つけていけるから、私は幸せなの。きっと、ずっと・・・

あなたの側にいられなくてもいいの。
ただ・・・側に私がいないことを、少しだけ悲しんでくれたら・・・


「奈津殿、これを。」
「お待ちしておりましたのよ、権中納言様。まぁっ、素晴らしい糸!!」
「姫君もお喜びになるに違いない。」
「・・・薬玉で、少しだけでも元気になってくださればよいのですが。」
「私は職務上、姫君に関する情報をお伝えせねばならぬ。失礼だが、姫君は今・・・?」
「・・・決して涙は見せません。無理してお笑いになるお姿が痛々しい程です。」
「奈津殿、あなたには話しましょう。実は―」






「な、なんですって?!お父様!!」
「何度も言っておろう、鈴姫。いい加減聞き分けなさい。」
「だって、そんなひどい話ないわ!!
東宮様に一番に入内するのは、私だとおっしゃっていたじゃないっ・・・ひどいわ!」
「東宮が突然『内大臣家の雪姫を妃として後宮に入れる』と公表されたのだ。
聞けば、もう手筈は大体整っているという。」
「・・・雪姫は、とても変わった姫君と聞いた。
だけど、近年稀に見る才女だと聞いてるわ・・・。
でも、内大臣は自ら後宮争いから遠のいていたはずでしょうっ?!」
そうよ・・・いつ、どこで、そんな話が持ち上がったの?!
それに、誰がここまで婚礼の準備を進めたというのよ。
女御入内ともなれば、婚儀には複雑な筋道がある。大臣の協力なしで、誰がそんなこと出来るのっ・・・?!
東宮様が信頼する誰かが、影で秘密裏に働いていたというの?!
不可能よ!!
「まったくだ、どこからそんな縁談が進んだのやら。はぁ・・・だが、雪姫の次はお前が」
「やめてよ、お父様!!絶対に認めないわッ・・・」
東宮様のお妃になり、東宮様の皇子をお産み申し上げるのは私よ!!
悔しい!!雪姫っ・・・あなたが憎いわ。
「入内までは近いのですか?」
「儀式などが山済みだからな、早くて三月程後だろう。」
「・・・ふふ、そう。」



「ではついに、入内を発表なさったの・・・そ、それは大変じゃない!!」
今まで入内を極秘に進めてきたのは、知れ渡れば、後宮争いの巻き添えになってしまうから。
それなら、知られた以上、姫様は危険じゃないの!
「何か言伝は預かっていますか?!」
「いや、私は何も。」
姫様は誰が守るのっ・・・?!


「わぁっ、綺麗な薬玉・・・月の君が私にっ?」
「ええ、そうですわ。先程使いの者がお届けにあがりましたの。」
「ふふっ・・・あれ、なんだか落ち着かないみたいだけど、何かあったの?」
「・・・あっ、いえ、別に。」

「ご機嫌よう、ご婦人方。」
「み、宮様!?」
「久しいですね、雪姫、奈津。」
「どうやってここに来たのっ・・・仮にも親王様が。」
「身を窶してコッソリ来たのですよ。今日は私用で伺ったのでね。」
「私用でって、私に?」
「ええ。今日伺ったのは、私の邸にお誘いしようを思ったからなのです。
珍しい唐渡りの絵巻物が手に入ったので、奈津も一緒に内緒で遊びにいらっしゃいませんか?」
「ずいぶん急なのね。どうしよう、奈津。」
「・・・中務卿宮様、約束覚えておいでですわね?」
「ええ、あの言葉に偽りはない。」
「?」
「・・・参りましょう、姫様。すぐに支度をいたします。」
「えっ・・・あ、うん。」
「奈津、正装する必要は皆無です。」



早急に内大臣邸から連れ出す必要がありました。
右大臣家の鈴姫は過激なかた。毒をもっているはず。
入内が公表された後、姫を匿うよう仰せつかっています。


来て7日目
どうして帰っちゃいけないの?!

本当のことを宮が話す。

「大臣の言いつけで、毒見した女房が死んだ」
大臣にまかせておけば手遅れに。
大臣みたいに悠長に考えてたらだめ。
だから、東宮と宮が動く。匿い守るよう、月の君からおおせつかっています。
大臣にも連絡はした。

ずーん・・・

東宮が宮の家に来る(方がえとか何とかで)

「初めまして・・・・・つ!月の君?!」

「月の君が東宮と知れれば、姫をお守りすることは出来ない。」だから黙っていました。

もう火蓋は切られたよ
今までは、身分を隠して宮と二人でことを進めてきた。
でも、もう黙っている必要はない。
入内までの予定は整い、もう動き出したのだから。






「なぁに、この汚い子は。」
「お姫様、お助けください!!娘がっ・・」
「なっ、放してよ!せっかくの唐衣が汚れるじゃない」
パシッ

「!!」
「姫様っ・・・いけません!!ここで露見しては御身に危険が!!」
「放して、奈津。」
ゾクッ
「この子は、私が介抱します!!あなたはもうお引取りを!」
「ふん、なによ。これでいいでしょう?!」
ビシッ
「っつ・・・」
金・・・?

「血がっ・・・姫さっ・・・!!」

「庶民のくせに、なんて女かしら。
私はいずれ東宮妃になるのよ?!分をわきまえなさい」
「・・・あなたは、綺麗だし偉いかもしれないわ。
でも違う、そんなものより、大切なものはたくさんあるわ!!
この人たちのほうが、あなたなんかよりよほど美徳を兼ねそろえてる!!」
「な、なんですって?!」
「お帰りください、あなたにはここにいてほしくない!」
「覚えていらっしゃいよ?!今日のことはお父様に進言申し上げておくわ」
「お好きに。でも、いずれ東宮妃におなりなら・・・私が、そしてこの人たちが言ったことを、考える義務がある!
それが出来ないようなら、あなたに后の資格はないわ!!」



ワァ!!
「雪姫様っ・・・!」
「額から血が・・・手当てを」
「私の車へ!私は平気だけど、この子はお医者様に見せないとっ・・・」




「・・・ひ、姫?!その子は・・・まさかっ、あなたの?」
「み、宮様ー?!
町で鈴姫と一悶着あって、保護したの。薬師をお願いします。」
「鈴姫と?」
「・・・私、自分が東宮妃にふさわしいなんて思ってない。
でも、あの人は人の上に立つべき人じゃない!私の方が、人民を愛してる自信があるもの。」

ポン
「東宮は、あなたのそう言う所をお好きなんだよ。
ホラ、あなたも手当てをしておいで。流血して、まるで物の怪のようだよ。」
「ひどい!!」
「入内まで体はいたわらなくてはいけませんよ。」
「・・・生きてれば何とかなるわよっ!絶対負っけないぞー!!」


「な、なんですって?!じゃぁ、昨日の無礼な女が雪姫っ・・・?」
「はい、そして耳寄りの朗報がございます。」
「なぁに?」
「それが・・・」



「・・・本当?」
「はい、確かでございますわ」
「ふふふっ、おほほほ!!すぐに使いをおだし!」